しばらくして、お茶を一口飲んだ田中さんが、
「仕事の話に変えてもいいですか?」と言った。
「ええ、ええ、もちろん。」専務は身を乗り出した。
田中さんはゆっくりと語りだした。
「実は弊社も、一昨年から自動車部品も手掛けるようになりました。部品は海外で生産していますが、二次加工の組み立ては殆ど国内でやっています。弊社の工場もあまり大きくないので、手一杯でしてね。もしよろしければ、御社でその工程のラインも人も、協力いただけませんか?」
専務は目を丸くしている。
「え、御社の製品の組み立てをうちで?」
「ええ。当面は規模も小さく、大した数は出ませんが。いや、不思議なこともあるものですね。こんな小規模な組み立てを、どこにお願いしようか考えていた矢先でした。」田中さんは専務の目をしっかり見て、そう言った。
「そ、そうでしたか。これも何かのご縁ですよ。ぜひ、協力させてください。ラインは残念ながら、いくらでも余っていますので。な!」工場長に向かってそういうと、専務はゲラゲラと笑った。
「まずは、工場を見せて頂けますか?」田中さんがほほ笑んでいうと、
「どうぞどうぞ。おい、ぼっとしてないで、さっさと用意しろ!」工場長に指示しながら専務は立ち上がった。
「このあと打ち合わせていくから、君は先に帰っていいよ。帰りはなんとかするから。」専務は私に言って、田中さんと工場長と共に、意気揚々と工場に去って行った。
私は一人、工場をあとにした。車を運転しながら、これで手がかりは絶えてしまい、この後はどうやって調べようかと考えていた。社員名簿にも無い。製造応援で来た人でも無い。だとしたら、他に伊藤さんが働いていたという資料はあるのだろうか。明日、もう一度ファイルをひっくり返してみようか。少しアクセルを強めに踏んで、私はそう思っていた。
翌日の昼頃、「課長、佐伯さんからお電話です。」と青木君から電話を取り次いでもらった。
「はい、お電話変わりました。ああ佐伯さん、先日はどうもありがとうございました。」
「いえいえ、サロンの皆さんもとても心配してくれて。それでね、いいニュースなんです。」佐伯さんは、喜びいっぱいの声で言った。
「伊藤さんが見つかったんですよ。」
「え!伊藤さんが見つかった!?」私が大きな声で電話を聞き返すと、事務所の誰もが一斉にこちらを向いた。
「ええ、駅前の不動産屋さんが、銭湯の近くにあったアパートに伊藤さんが住んでいたのを覚えていたみたいで。」佐伯さんは落ち着いた声で言った。
「それで、伊藤さんは今、どちらにいらっしゃるのですか?」私はせききって、質問した。
「近くに住んでいるそうです。先週まで、入院されていたそうだけど、今は退院されて自宅にいらっしゃるそうですよ。」
「ぜひ、お会いできませんか。」
「もちろんですよ。不動産屋さんが隣に喫茶店があるからそちらをどうぞと言ってくださってます。いつがよろしいですか?」
私は通話口をおさえながら専務にいつにしましょうかと聞いてみると、
「明後日は土曜だから、明後日の1時でどうだ?」専務がそう言った途端に、
「私も行っていいですか?」「あ、私も!」小川さんと青木君が言った。
「いいだろう。社長も大丈夫ですね?」専務が聞くと、
「はい」社長はもちろんという顔で、大きく頷いた。
私は再び通話口に向かい、「明後日の土曜日、13時に、こちらからは5名で伺います。」と言った。
「わかりました。私は棚橋さんと二人で参ります。では、当日はお願いしますね。」
佐伯さんは明るい声で電話を切ったが、私も思わず小さくガッツポーズをした。
「やったな!今日は前祝いだ!青木、缶ビールとつまみ買ってこい!」専務は財布から千円札を数枚抜き取ると、青木君に渡した。青木君は急いで、近くのコンビニに走っていった。
「やっと会えますね!」小川さんが嬉しそうに言う。
「どんな人なんでしょう?しっかりした人なんでしょうね。」社長も笑顔で皆に言った。
「意外と近くにいたんだな。」専務は言った。
「人のネットワークは大きいですね。ましてや、古くから住んでる人達ばかりだから、情報が早かったですね。」私がそう言うと皆が大きく頷いた。「LINEより早くて、確実ですよね。」小川さんが笑いながら言った。
「あたりまえだよ。ラインだと?年寄りをなめちゃいけないよー。」専務がおどけて言うと、みな笑った。
その日はいつもより遅くまで、事務所で缶ビールを飲みながら、伊藤さんのことを全員で話し合った。このメンバーで、こんなに話をしたのは初めてだった。それがなぜかとても嬉しく、お互いに少し照れくさかった。
土曜日の午後、不動産屋の隣にある小さな喫茶店に集まった。
不動産屋は、良くしゃべる調子のいい人だった。サロンで見かけた背の小さなおじいさんの同級生だというが、はるかに若く見える。髪も黒く、ふさふさしており、下手すると専務より若く見える。喫茶店のマスターに冗談を飛ばしながら、コーヒーや水を店員と一緒になって運んで来て、座るやいなや、待ってましたとばかりに胸を張って早口で語り始めた。
「サロンでそういう話があったと聞いてさ、すぐにピンと来たわけだ。ほら、うちの店は東京オリンピックの時に出来たからね。この辺の事は、大概はわかるんだよ。伊藤さんって言ったら、銭湯の近くのアパートの2階に住んでて、礼儀正しい子だったから。近所でも有名だったよ。そのあと結婚して姓が変わったけどね。あたしが部屋を世話した人は、よく覚えてるんだよ。何しろほら、東京オリンピックの頃からやっているから、たくさんの人に貸したよ。プロ野球の選手もいたんだよ。ヤクルトでピッチャーやってたほら・・」
自信満々にこちらの顔を一人ずつ見渡しながら、とめどなく話している。
「誰か話をとめたほうがよくないか?」専務は小声で、青木君に言っている。青木君も困ったような顔をしている。
「ところで、伊藤さんはまだかしら?」話のすきをぬって、毅然と棚橋さんが聞いた。
「そろそろ来るでしょう。なにしろね、先週まで市立病院に入院してたから。今回は大変な手術したというし、あまり早く歩けないんじゃないかな。」不動産屋はコーヒーを片手に、深刻な表情で言った。
「やっぱり、ずっと体調が悪かったんですね、きっと。」社長が心配そうに言った。
「無理をお願してしまったかな。」専務が腕を組んで、そう言った。
「ま、大丈夫でしょう。あ、来た来た!伊藤さん、こっちこっち。」
不動産屋が手を振る先には、片手で杖をついてゆっくり近づいてくる年配の女性の姿があった。
彼女は足元を見つめるように、下を向きながら、「コツ、コツ」と杖の音と共に一歩ずつ、我々の前にやってきた。そして、杖を脇におくと、深くお時儀をしながらしっかりした声で挨拶した。
「伊藤です。今は田代といいます。」
顔を上げた彼女の顔に、全員の視線が集まった。
私はすぐに、写真の中のイメージと、目の前にいる伊藤さんの姿を結び付けようした。何度も何度も見返した古い写真の中のおさげ髪の女性。私の死んだ姉にそっくりだった女性。
この人だったのか。私達の探していた人は、この人なのか。その表情の微妙な動きも見逃すまいと、必死に視線で追った。
一緒に仕事をしたわけでも、身内であるわけでもないのに、やっとめぐり合えた。どうして、ここまで思い入れが強くなってしまったのか、自分でも理解できない程だ。会いたかった。私は胸が熱くなった。とにかく、ここにいる誰もが、無性に会いたかったのだ。
棚橋さんと佐伯さんは伊藤さんの姿を見たときから、ハンカチで目を押さえている。小川さんも「よかった、よかった」と泣きながら手で顔をおおっている。不動産屋も、大きな音をたてて鼻をすすりながら、もらい泣きをしている。青木君はどうしていいかわからない表情のまま、おろおろしている。社長は何も言わずに、目を伊藤さんに向けたまま直立不動だった。専務はまるで古い友人をいたわるように、「ささ、どうぞかけて。まずは、かけて。」と伊藤さんの肩に手を添えながら言っている。伊藤さんは頭をさげて、ゆっくりとソファーに座った。
≪つづく≫
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