シリーズ2回目は、多少地味だが玄人好みの武将を紹介する。現在では相当の歴史ファンでなければ知らないかもしれないが、大阪の陣の頃、あの家康ですらよく知っていたという豪の者が『御宿勘兵衛』‥だ。
御宿政友(みしゅく まさとも)、永禄10年(1567年)頃の生まれで元和元年5月7日(1615年6月3日)に討死したとされる。通称は勘兵衛、越前守を名乗る。一部の資料には、御宿官衛正倫との表記もある。
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将で、諱は初め綱秀(つなひで)、後に政友(政倫とも)に改名した。勘兵衛は、駿河駿東郡御宿村の出身と言われているが、葛山播磨守綱氏の嫡子で、同族の御宿監物友綱の養子となったとの説が有力。但し単純に友綱の嫡子としている資料も多く、別人の御宿信友の子だとする説もある。
養父の御宿(葛山)友綱は、葛山貞氏の孫とされる。当初は今川家の家臣だったが、父の綱春が今川義元に討たれた後は武田信玄に仕える。信玄は、自らの六男信貞を友綱の叔父である葛山氏元の養子とし、葛山氏の名跡を継がせたが、友綱はその信貞の陣代(後見役)を務めた。
また医術に長じて文筆の才もあった友綱は、信玄の病状を知る際の有力史料とされる小山田信茂宛の手紙「御宿監物書状」で有名な信玄の主治医、御宿監物と同一人物。尚、御宿氏は葛山氏の同族・一門である。また、勘兵衛が葛山信貞の子であり、武田信玄の孫であるという珍説も存在している。
勘兵衛は、上記の友綱の養子であったが、勘当されて松田憲秀に仕官して後北条家に仕えた。しかし、武田家滅亡後、父の友綱も後北条家に仕官したとされる。また友綱の子で勘兵衛の弟、御宿政綱も後北条家に一旦は仕官したが小田原開城後は徳川家の配下となり、松平忠輝に仕えたとされる。
さてこうして武田家から後北条家へと移った勘兵衛だが、その後北条家も滅び、ようやく徳川家康の次男、結城秀康に1万石という高禄で召抱えられた。しかし秀康の死後には、跡継ぎの松平忠直と不和となり出奔したとされている。尚、諸説ある中で、武田家の滅亡後、越後に逃れて上杉家に仕官した、もしくは、後には福島正則にも仕えていたという説もある。
大坂の陣が始まると大坂城に入城、大野治房の補佐役・副将格となる。この裏切り行為に激怒した忠直は、勘兵衛の首に5千石の懸賞を掛けたという話もある。
徳川家康が、大坂夏の陣の前に大坂城に入城した敵方(大阪方)の武将の名簿を見て、「大阪方の牢(浪)人衆の中では、後藤又兵衛と御宿勘兵衛は侮れない」と述べた歴戦の強者(つわもの)とされるが、仕える御家(おいえ)がことごとく没落するという(ある意味、疫病神的な)不運の武将でもあった。
実際にも、冬の陣では本町橋の夜戦において、塙直之、米田是季らと共に活躍したが、翌年の夏の陣、最後の決戦であった天王寺・岡山の戦いにおいて、岡山口で奮戦するも松平忠直家臣の野本右近(後述)に討ち取られた。
白糸の鎧に梨子打ち烏帽子の冑を着用。紋所はもちろん武田菱で、五色の幣を馬印としていたとされる。