《戦国の終焉、大坂の陣の武将たち -2》 御宿勘兵衛政友 〈25JKI28〉

結城秀康-松平忠直が治めた越前福井藩の逸話なども納めた『国事叢記』に拠れば、大阪夏の陣の末期、勘兵衛は敵方のかつての同輩で、旧友の松平忠直家の家臣である野本右近に使者を遣わして、「自分は大坂方の一軍の将として貴殿らと戦う立場だが、恥ずかしながら浪々の身であったので好(よ)き馬に恵まれていない。ついては忠直卿のご自慢の駿馬『荒波』を拝領仕り、快く一戦して名を後代に 残したい旨、殿さま(忠直さま)へ頼み入りたい」と伝えた。どこまでが本気なのか分からない半ば嫌がらせとも言えるこの言動に、一旦、忠直は「この物言いをどうしてくれよう」と単純に激怒したが、老臣たちの諫言もあってか勘兵衛の挑発にむざむざとはのらずに、敢えて忠直は勘兵衛に立派な(金覆輪の)鞍とともに『荒波』を下賜して天下に度量を示したという。

そして翌日の合戦で勘兵衛は、この『荒波』に乗って戦場を駆け討死することになるが、小橋村付近に布陣して本多伊豆守勢など多数と交戦、奮闘むなしく御宿隊は壊滅し勘兵衛も深手を負って休んでいた処へ、かの野本右近が通り掛かかる。そこで勘兵衛は右近に自分の首級をとって手柄とするよう強く勧め、右近は泣く泣く勘兵衛の首を落としその功により3,000石を給わったという。しかしこの逸話も『難波戦記』などがネタ元なので、信憑性は疑わしい。死亡の状況も、落城後に討死にした、もしくは数日の逃亡後に自刃した、との話も伝わっている。

勘兵衛は、豊臣秀頼より徳川方に勝った暁には越前一国を給するとの書付をもらい、この時より越前守を名乗ったとの巷説もあるのだが、「勝ったら旧主の領地、越前を所 望するぞ」との当て付けから越前守を称したというのは、実際には少々、怪しいと思われる。 何故ならば彼は以前から越前守を名乗っていたとも云われるし、父親の友綱も越前を称していたらしい。更に、以前より勘兵衛が越前守を名乗っていたが故に、松平忠直と揉めたとの説もあるのだ。

また大阪夏の陣の最中、勘兵衛が徳川方の重臣、板倉勝重の陣へ出頭して、古田織部などの別働部隊が伏見を中心に京の都一帯を焼き討ちする計画があることを、罪人として江戸で囚われている自身の子息の赦免を目的としてリークしたという話も伝わっている。

板倉からの報告を受けた家康は、その情報を信じたらしいが、これが本当の話だとすると、それは密告という(勘兵衛自身も認めているらしいが)武士らしからぬ卑怯な振る舞いであるが、もしかすると彼は元々、徳川方のスパイとして大阪城に入城していたのかも知れない。当時は、他にもその様な武将が多数いたという。また、敗戦必至の状況で、戦後の身の振り方を考えていた者も多く、戦国の気風が色濃く残る当時は戦に負けても生き永らえて再度仕官することは、(後々の江戸時代とは異なり)それ程、異質な行動ではなかった。決して、二君にまみえずなどということはなかったのである。

しかしこの時、板倉から徳川方への帰参を勧められた勘兵衛だが、さすがにそれは断って大阪城に戻ったとされる。

因みに、 この件でいえば、甲州流軍学の創始者として名高い兵学者の小幡景憲が、大阪方に与しながら徳川方への情報提供者として活動しており、同様の情報を板倉勝重にもたらしている。景憲は、戦後は再び徳川氏に仕えて1,500石を領した。

 

家康からも武将として高く評価されていた御宿勘兵衛だが、大阪の陣では後藤又兵衛などと比較して華々しい戦績も収められず、後世にそれ程の知名度を残せなかった。

裏切りの逸話も含めて、総じて徳川陣営から大阪方へ参陣した牢人組は不遇を託(かこ)つているが、やはりここ一番、信用されなかったのであろう‥‥。

-終-

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