今回の【名刀伝説】では、大典太光世(おおてんたみつよ/おおでんたみつよ)を紹介しよう。国宝に指定されており、天下五剣の内の一振(ふり)である。尚、正式な国宝登録名は「太刀 銘 光世作 名物大典太(たち めい みつよさく めいぶつおおでんた)」である。
大典太光世は、三池典太光世の作である。光世は平安時代後期の筑後の国の刀工で、力強く豪快な作風であった。彼の詳しい人となりは知られていないが、承保年間( 1074年~1076年)に活躍したとされ、この刀には「光世作」との三字銘が目釘孔の下にある。
この太刀の刃長は2尺1寸8分余(66.1cm)、反りは9分弱(2.7cm)。先身幅2.5cmで元身幅3.5cmである。
茎から刀身の五分の一ほどまで鎬筋に沿って「腰樋(こしひ)」と呼ばれる幅が広く底の浅い巧みな樋を掻き流しており、中峰の猪首となった形が力強い。そして同時代の太刀と比べて非常に身幅が広く、刀身の短い独特の体配を持っている。
鍛えは大きく板目肌が流れ、大肌が交じりながら地肌が白けている。これは、九州地方で作刀された年代の古い業物に多く共通するとされている特徴だ。
茶色皺革包に萌黄糸巻を施した「鬼丸拵(おにまるこしらえ)」が付属しているが、これは寛文9年(1669年)に、前田利常が本阿弥光甫に命じて作らせたと云われる。その時、鎺の裏にある桐紋を前田家の梅鉢紋に替え、目貫も梅鉢紋に替えたとされる。
一般的には平安時代の刀剣は細身ですらりとした優美なものが多いが、大典太は身幅が広く剛毅で重厚な作りが特徴だ。前述の通りこの時期の太刀にしては刃長が短く、その為、一部の刀剣研究家からは、この刀の作刀年代は平安時代前期よりも遡るのではないか、とも考えられている。
大典太は、もともと鬼丸国綱や骨喰藤四郎、大般若長光などと同様に足利将軍家の宝刀であったが、足利将軍家第15代将軍の義昭から鬼丸国綱や二つ銘則宗と共に豊臣秀吉に献上(一部に信長経由説あり)されたという。そして、豊臣秀吉から盟友、前田利家に贈られたとも、また一旦、豊臣秀吉が徳川家康に贈り、2代秀忠から前田利常に譲られたとの説もある。
その後は、三条小鍛冶宗近の刀、静御前の薙刀と共に「鳥とまらずの蔵」(後述)に収蔵されて加賀前田家三種の神器として、代々家宝として受け継がれた。
尚、前田家ではこの太刀を「大伝太」と称するが、刀剣名物帳には「大伝多」と記載され、現在の文化庁は国宝指定において「大典太」と表示している。伝太は光世の通称であり、古剣書には伝多や転多、または典太、典多、そして田多とも書かれている。
また前田家には、他にも三池光世が作刀したとされる刃長二尺三分(約61.5cm)の太刀があり「大伝太」より小振りの為か、「小伝太」と呼ばれている。
大典太が、豊臣秀吉からどのようにして前田家の手に渡ったかの経緯については、次のような複数の逸話が残っている。
《肝試し》
当時、伏見城の千畳敷(大広間)を深夜に歩いていると、何者かに背後から刀の鞘をつかまれて身動きが出来なくなるという不吉な噂が、大名たちの間で広がっていた。
その噂を聞きつけた前田利家が、そんなことくらいを恐れている様では命のやり取りを生業(なりわい)としている武士は勤まらないと、自分が事の真相を究明する為、夜に千畳敷で肝試しを行うと吹聴した。(一説には、千畳敷を本当に訪れた証として加藤清正に借りた軍扇を、千畳敷の奥へと置いてくると宣言したという)
これを聞いた豊臣秀吉は、盟友前田利家の身を案じて魔除けの刀として大典太光世を持たせて肝試しに送り出したが、実際に利家が深夜、千畳敷を訪れても特に何も起こらなかった。結局、以降は不吉な噂は払拭された。
こうして利家が何事もなく帰ってくると、秀吉はその褒美として大典太を与えたという。