【国鉄昭和五大事故 -2】 三河島事故 〈1031JKI51〉

三河島事故写真
三河島事故写真

【国鉄昭和五大事故】の第二弾は『三河島事故(みかわしまじこ)』を取り上げる。

この三河島事故は、信号を見落とした貨物用SLのD51牽引の貨物列車が安全側線に突っ込んで脱線し、そこに電車が衝突、更にその事故電車から脱出した多くの乗客たちへ別の列車が突っ込んで被害が拡大したという、昭和史に残る大惨事であった・・・。

 

事故の状況

それでは早速、事故の状況を詳しくみていこう。

この事故は、昭和37年(1962年)5月3日の21時37分頃、東京都荒川区の国鉄常磐線三河島駅構内で発生した列車脱線多重衝突事故であり、『国鉄昭和五大事故』の一つに数えられている。

この事故当日は、早朝に東北地方で地震が発生しており、また東北本線の古河駅で起きた脱線事故等による影響もあってか常磐線では大きくダイヤが混乱しており、夜分になってもその乱れ残っていた。

事故の発端は、常磐線三河島駅構内において、貨物線から進行方向右側の下り本線に進入しようとしていた田端操車場発水戸行の下り、貨物用SLのD51 364が牽引した45両編成の287貨物列車が、場内信号機が注意現示(黄信号)であったにも関わらず駅構内へ進入し、直後に出発信号機の停止(赤)信号に気が付いたが減速が間に合わず安全側線に突入して脱線、先頭の蒸気機関車と次位のタンク車(タキ50044)が下り本線側に傾斜して乗り出し下り本線の通過を妨害(21時36分30秒とされる)してしまった。(本来、287貨物列車は通常では三河島駅を通過してそのまま下り本線に入るが、事故当日は2117Hが上野駅発の時点で2分30秒ほど遅れていた為、三河島駅で2117Hを待避する措置が取られたとされる。)

その直後に、三河島駅での客扱いを終えて4分遅れで出発(21時36分)した上野発取手行きの6両編成の下り2117H電車が、下り本線の線路側に傾いていた蒸気機関車に激突(21時36分40秒)する。2117Hの運転士は慌てて緊急制動処置を行ったが間に合わずに、約40km/hで衝突した先頭車のクモハ60005と2両目のクハ79396が上り本線に飛び出して上り線を妨害する形で脱線したのだった。

2117Hは当初、脱線はしたものの重大な負傷者等(25名程度の負傷者)の乗客はいなかった。ところが、1〜2両目の車両においてはパンタグラフが架線から離れたことで、乗客は非常用ドアコックを操作して列車外へと避難していた。また後尾の6両目に乗車していた車掌は、運転士と連絡を取る為に車内電話を使用したが応答が無かったので、自ら車外に出て先頭に向かって移動していたのだ。

また同時期、現場近辺の三河島駅信号扱所の職員は取り急ぎ下り本線の信号を赤に切り替えた上で三河島駅の助役に当該事故のことを連絡し、更に助役は常磐線を担当する運転指令に事故発生を報告したのだったが、この助役は関係部署に本件を通知し下り線の後続列車の運行を停止させたが、この時点では支障の状況が不明確であった上り線関係には、上記事故発生の情報を知らせたのみであった。

ところが事故はこれで終わらなかったのだ。丁度その頃、取手発上野行の9両編成の電車2000Hは地震発生の影響で定刻より約2分ほど遅れて南千住駅を発車しようとしていた。同じ頃、慌てて南千住駅の信号扱所は発車信号を赤に変更したが、既に2000H電車は信号を通過しており制止は不可能であった。三河島駅での事故を知らない2000Hの運転士は運転を続け、それから約7分後には事故現場に進入し、上り線路に降りて三河島駅に向って移動中だった2117H電車の乗客たち多数を跳ね飛ばしながら、上り本線上に停止していた2117Hの先頭車両と衝突する。

2000Hは先頭のクハニ67007が完全に破壊され、2両目のモハ72549は築堤の下に落下して線路脇の倉庫に突っ込み、3両目のサハ17301も同様に築堤下に滑り落ち大破、そして4両目のモハ72635は脱線してしまう。また2117Hの先頭車と2両目車両の前部も原形を止めないほどの大きな損傷を受けた。

これら一連の事故の結果、2117Hの乗客と2000Hの乗客や運転士の合計死者が160人、負傷者は296人となる記録的な大事故となったのだ。ちなみに死傷者の中には、脱線した2000Hから外へ逃れようとして、高架下に転落した者もあったという。

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