【国鉄昭和五大事故 -2】 三河島事故 〈1031JKI51〉

事故の原因

続いて事故の原因だが、最初の下り287貨物列車の脱線は機関士が信号現示を誤認(信号見落)したとされ、これは仮現運動という錯覚によって誤認が引き起こされたともされている。この時、本線の閉塞信号機が先行列車の為に進行現示しているのがチラチラと見えていたが、287貨物列車の機関士は自分の列車の進路が開通したと錯覚したとされている。

また、287貨物列車は三河島駅の出発側で高架の本線に合流する為に地平レベルから右へとカーブしながら上りの勾配を登坂していたことと、更に(もともと)蒸気機関車の運転席の視界は決して良くはないので信号を見落とし易かったという説や、また貨物列車の機関士は信号を視認していたものの、大量の貨車を牽引しているので勾配途中での駐停車を回避、または躊躇(重牽引の貨物列車が勾配で一旦停止すると、再度、発進することには大きな困難を伴う場合がある)したという説もある。

三河島事故写真
三河島事故写真

そして当時はまだ、運転士が信号を見落としたという様な危険な運転ミスを回避・バックアップする(後のATS等の)機械的な安全装置が無かった為に、本来、停止するべき位置をオーバーランしてしまう。但し、このオーバーランした貨物列車は安全側線へと進入し、本線に直接突っ込むことは無かったのだった。

つまりこの段階では本線列車との全面衝突を避けることが出来たのだったが、しかし貨物列車の走行速度が安全側線内で問題なく停止できるほどには低速では無かったことにより、車止めに突っ込み脱線して本線側に傾斜してしまう。

そして直後、脱線した287貨物列車へ下り2117H電車が接触・衝突するのだが、これは最初の事故のわずか10秒後であり、避けることは極めて困難であったとされる。但しこの時点での死者は0(ゼロ)、そして負傷者は25名であり、安全側線の効果で全面衝突は回避されて、なんとか被害は最小限に食い止められていた。

だが次に、その後の被害拡大の大きな要因として、上り2000H電車の抑止手配の遅れがある。最初の衝突の後、約5分50秒にわたって三河島駅の駅員や信号扱所の職員、また両列車の乗務員が上り線に対する列車防護の措置を実行出来なかったことが、上り2000H電車の突入の原因になったのだった。本来はこの時間差を活用しておれば、上り電車を止めるには十分な余裕があったと云える。しかし現実には当該の電車を制止することは能わず、第三の重大事故が発生するに至った。

但し、当時の詳細は以下のように伝わっている。事故現場は三河島駅から数百メートルほど離れていて、駅員が直接状況を確認することは困難であった。また事故現場により近い三河島駅信号扱所の職員は、当夜は新月で月明かりが無く、暗がりの中を事故の状況を確認するには実際に現場付近に赴いて視認する必要があった為、上り線支障の報告が遅れる事となったという。更にこの当時は、信号扱所の職員には運行中の列車を自らの権限で止めることは出来なかったのであるが、それは安全管理上の大きな問題であった。

一方、乗務員たちだが、287貨物列車の機関士は駅に事故発生を知らせに急いで向かったとされるが、機関助手は足を負傷して動けずにいた(異説もあり)。2117H電車の運転士は貨物列車と衝突した際に頭を強打して失神したものの、何とか上り2000H電車との衝突直前に運転室から脱出して無事ではあったが、結果として2000H電車に事故を知らせる行動を取れなかった。

また運転指令が事故の発生を確認した時点で、現場付近の上り線の運転を下り線同様に全面停止しなかったことも、事故を防げなかった大きな原因とされる。現在ではこの事故については、事故の直接原因の解明も重要であるが、最初の事故(第一事故)発生後の対処方法にこそ、多くの学ぶべき点があるとされている。

また当時は、国鉄職員全般に対して、この様な重大な事故発生を想定した教育が不十分であったのだ。

更にこの時、被害が大幅に拡大した原因としては、1951年の桜木町事故での列車火災の教訓、つまり乗客が被災車両から車外へ避難できずに数多くの死傷者を出したことによって設けられた乗客用の非常用ドアコックを、乗客たちが勝手に操作して線路上に降りて避難したことによるとされている。要するに三河島事故では、ドアコックを手軽に乗客が使用出来たことが裏目に出てしまったと言えるのだ。

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