事故の対策
事故後、国鉄内に三河島事故特別対策委員会が設置された。そしてこの事故を契機として、自動列車停止装置(ATS)の整備が急がれた。従来の計画を前倒しにする形で国鉄全線に設置され、昭和41年(1966年)までに一応の整備を完了する。尚、ATSは、赤信号を無視・見落とすと自動的に非常ブレーキがかかるシステムである。
1956年の六軒事故を受けて全国主要各線へ設置を行う予定になっていた従来の車内警報装置には、列車を自動停止させる機能は無く、この種の信号誤認事故を物理的に防ぐことは出来なかったのだ。
以後、軌道短絡器・信号炎管・列車防護無線装置などの整備が実施され、更に運転指令所等と列車乗務員などが直接連絡通話が可能な列車無線が順次開発・装備されて、運転士と直接連絡が取れるようになった。そして以降、脱線防止対策や信号自動化、踏切の安全対策の充実、また何より(『運転心得』大改正を含む)乗務員・職員への指導方針が(事件後には、以前の「なるべく列車を止めるな」から「何か小さな事故があれば、まず列車を止めよ」へと)変更され、事故訓練の強化といったことも急速に推し進められていく。
ところが、三河島事故の教訓によって「異常が発生したら直ちに列車を止めろ」という規定が徹底されたが、この規定は10年後の1972年11月6日に発生した北陸トンネル火災事故で、かえって被害を大きくしてしまう(30人が死亡、負傷者は714人にものぼる)のだった。そこで改めてトンネル内の火災の場合は、トンネル内で停車しない等の方針に変更となる。
またしても事故の教訓は絶対ではないことが判明したのだ。桜木町事故においても三河島事故に関しても、その対策が全て正しいのでは無く、状況により臨機応変に対処することが求められるということだった。規定(マニュアル)による対応の限界は明確であり、それぞれの事故において状況を見極め、対応を判断する力の強化、想定外に対する訓練が不可欠だということが真の教訓ではなかろうか。
尚、三河島事故に関しては、同じ常磐線で昭和18年(1943年)10月26日に起きた土浦事故と非常に類似点が多いという。戦時中故に土浦事故はあまり知られていないが、この事故の検証・反省が正しく為されていれば三河島事故は防げたのではないか、とも云われている。
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