【歴史ミステリー】 家康のご落胤、小笠原権之丞。大阪夏の陣に散る!! 〈2316JKI54〉

権之丞678ダウンロード時代劇や歴史小説によく登場するのが、ご落胤(らくいん)。そして落胤とは、父親に認知されていない庶子・私生児のことであり、かつ高貴な人物の子どもで、相続問題でトラブル(所謂、御家騒動)などが起きないようにそれが隠されていることが多い。

さて歴史上、徳川家康のご落胤とされた人物は数多いのだが、今回は最後には敵方(豊臣方)につき、大坂の陣で落命した小笠原権之丞と取り上げることとする・・・。

 

小笠原 権之丞(おがさわら ごんのじょう)は、天正17年(1589年)頃に生まれ、慶長20年5月7日(1615年6月3日)に死亡したとされる、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将である。通称は左馬之助とも伝わる。

徳川家康のご落胤の一人とされているが真偽は不明。落胤説では母は京都の三条氏の娘とされ、本当ならば家康の五男の松平(武田)信吉の弟で、六男の松平忠輝の兄にあたる。

以下本稿においては、落胤説を正しいとして述べていくものとするので、読者諸兄には了解願いたい。

 

さて、徳川家康の親族に関する出生や降誕に関する覚書である「御降誕考」(1674年成立)においては、権之丞の生まれの詳しい事情については不明としながらも、当時の家康の正室であり秀吉の実妹である朝日(旭)姫の女房(上級の侍女)であった「大さい」「小さい」の2人の内、「大さい」に家康の手が付いて身籠ったとされている。

そして家康は、「大さい」の懐妊を知ると朝日姫並びに秀吉への配慮もあってか、正妻を亡くしていた家臣の小笠原越中守正吉に「大さい」が与えられ、正吉宅で生まれた男子を養子にして権之丞と名乗らせたという説が紹介されている。

権之丞は、「寛政重修諸家譜」によると幡豆小笠原氏の越中守広朝の子となっている。但し、この広朝は正吉のことだと考えられており、以後、本稿では正吉に統一する。また当然ながら、官選の同系譜には権之丞が家康の庶子であるとは記されていない。

次のページへ

《広告》