権之丞の誕生の時期については、宣教師ジョアン・ロドリゲス・ジランのイエズス会総長宛の「1612年度日本年報」に、権之丞が24歳(満年齢は22歳か23歳?)だった慶長17年(1612年)に徳川家から追放されたとあることから、逆算して概ね天正17年(1589年)前後と推測される。
また、権之丞が生誕したとされる時期の、つまり徳川家康を取り巻く天正16年~17年の奥向きの状況は、天正14年(1586)年には朝日(旭)姫を正室に迎えていたが、彼女は同16年(1588年)6月に母親(大政所)の病気見舞いで上洛して以来、京都に滞在していた。一旦、駿河に戻ったとの説もあるが、聚楽第に居住していたとされ、天正18年(1590年)の正月には病気となり14日には死去したとされる。一方、家康は天正17年(1589年)には三男の秀忠や四男忠吉を生んだ側室であるお愛の方(西郷の局)を亡くしている。
そして松浦鎮信が著した「武功雑記」(1696年頃に成立)には、何らかの罪を犯して大久保忠世のもとへ預けられていた小笠原越中守(正吉と思われる)の不義密通が露見したが、家康は「その二人を夫婦にせよ。本来の正吉の罪も許そう」と命じたという話が記載されている。
しかし、これも随分と怪しい話で、越中守が妻としたのは例の「大さい」であり、家康がどうやら正吉の罪にかこつけて自分の子を懐妊した「大さい」を正吉に押し付けたとも考えられそうだ。
権之丞の母については、「かぼちゃ寺」として知られる西尾市東幡豆町の「妙善寺」(浄土宗西山深草派)に位牌が祭られているそうだ。もともと「西林寺」として天文年間(1532年~55年頃)に創建されたが、後に小笠原越中守(権之丞であろう)が母親(心秋妙善大禅定尼)の供養のために田地を寄進し、「妙善寺」と改称したとされている。
その位牌には「妙善尼は小笠原権之丞の実母である。左馬之助(権之丞の通名)が成人して江戸へ出仕した後も幡豆にとどまり、家臣の大嶽間之左衛門の世話になった。そして妙善尼は、幡豆の地に八幡神を勧請して社を建てたが、その神社は村の氏神となり、大竹(大嶽?)氏が守護していた」とあるそうだ。
しかし寺の過去帳には、妙善尼は天正11年(1583)年には死去したとある。ところが徳川幕府の側室の経歴を伝える書竹尾次春著の「幕府祚胤(そいん)伝」には、権之丞の母親は京都の三条氏の娘だったとあるが、この妙善尼が権之丞の実母であるとすると、彼が天正17年(1589年)頃に生まれとする他の資料とは整合性がとれない。
ここからは推測の度合いが高まるが、小笠原正吉が亡くした正妻が小笠原氏の家老職だった大嶽家から嫁いで来た後の妙善尼であり、彼女の死後、京都三条氏の娘、つまり「大さい」を妻に迎えて権之丞が生まれたと考えたいところだ。権之丞は、父親(正吉)の亡くなった先妻である妙善尼を弔うために「妙善寺」に寄進をした、と解せよう。
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