ところで、権之丞のご落胤伝説を裏付ける逸話としては、近似の話が他にもあることが挙げられる。
家康の正妻築山殿の嫉妬から、折檻を受けたが本多重次により助けられたという結城秀康とその母(於万/小督の局)の話(専門家からは否定的な見解が多い)や、松井忠次(松平康親)が嫡子をもうけずに亡くなったところへ、家康が自らの侍妾(能美松平重吉の娘との説がある)を送り込み、永禄11年(1568年)に生まれた康重が実は家康の子だという話(石川正西聞見集)などがある。権之丞が生まれた際の状況と似ていることから、権之丞が家康の実子である可能性も否定できない。
どちらにせよ、こうして権之丞は正吉の子として成長し、長じて幡豆小笠原家を継ぎ、6,000石の旗本となる。父親の小笠原正吉は、小笠原家の庶流で武田水軍の流れを組み、当時の徳川水軍の一役を担った人物であり、権之丞も徳川幕府の御船手衆の一員となった。
しかしながら、他の落胤といわれる兄弟と比較して当初の権之丞の家禄が少ない様にも思えるが、無事何事もなく過ごしていれば大御所(家康)のご落胤ということもあって、順風満帆な将来(数万石から十数万石以上の大名)が約束されている、可能性はあった。
ちなみに、室は近藤石見守秀用の娘と云われていおり、一男二女があったという。男子は早世、娘二人は間宮信勝と中川飛騨守忠幸に嫁いだとの話もあるが、いくら若年で子どもをもうけたとしてもそれは権之丞の年齢から鑑みてかなり厳しく、疑問が残る。(1617年の改易時には2歳の娘が一人いた、との伝承もある)
後に徳川家を離反する原因となる権之丞のキリスト教信仰に関しては、父親の小笠原正吉もキリシタンであり、母親も熱心なキリシタンであったとの説もあり、その影響から権之丞もキリシタンとなったというが、これは俄かには信じ難い。
権之丞の洗礼名はディエゴで、これは当時のフランシスコ会の宣教師ボナベンツェラ・ディエゴ・イスパニエスからとられたのではないかと推測されている。
「イエズス会日本年報」などのキリスト教側の資料によると、彼が洗礼を受けたのは慶長10年(1605年)となっており、フランシスコ会の記録では駿府に小笠原権之丞の支援で教会も建てられている。丁度この頃は、キリスト教各宗派の宣教活動が活発を極めた頃で、当時、我国には75万人以上のキリシタンがおり、この年に新しく洗礼を受けた者は5,500人にものぼったとの説もある。
また、同じ時期に三河国での布教に従事していたイエズス会の司祭が、駿河国で権之丞と思われる「公方の息子」と呼ばれるキリシタンの若者の屋敷に泊まったとの記録もあり、司祭のよると、彼の生活は模範的修道士の様にイエスを信じ質素で高潔だったと記されている。
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