ところで徳川家康は、当初、南蛮貿易のためにキリスト教を禁止してはいなかったが、当時の長崎奉行所の役人から家康の重臣の本田正純の家臣となった岡本大八が、肥前の大名有馬晴信を相手に起こした収賄・詐欺事件(1609年~1612年にかけての岡本大八事件)に関して、両者がともにキリシタンであったことなどから、(自らに火の粉が降り懸かることを恐れた)本多正純や金地院崇伝がキリシタンの禁教令を進言し、徳川幕府は慶長17年(1612年)に、江戸・京都・駿府などの幕府直轄地でのキリスト教会の破壊と布教の禁止を命じたのだった。
そして、翌年にはこれが全国を対象とした「伴天連追放令」となる。慶長18年(1613年)のキリシタン禁教令の際には、徳川家の家臣団や奥女中たちも調査され、改宗しない者は改易処分にされ、居住が禁止されるなどの厳しい処罰が行われた。
小笠原権之丞は、この一連のキリシタン禁教令が発布された時に改易され、放逐されたのだった。
レオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」によれば、「公方がこの時に断乎として追放した14人の武家の筆頭は、ディエゴ小笠原で年齢は24歳、僅か6年前に洗礼を受けたばかりであった。彼は6,000石の禄を食んでゐた。(中略)彼は夫人と二歳になる女の子を連れて致仕、出奔した」と記している。
また「徳川実記」によれば、権之丞の小笠原家は改易。彼と家族は棄教したことで助命されたとされるが、後の行動からしても棄教は偽りであった様だ。
慶長19年(1614年)、東西の間が風雲急を告げると伊勢白子の(幕府旗本で権之丞と同じ御船手を務めていた)小浜守隆のもとに暫し身を寄せた後、同じく改易された西郷惣右衛門という武士ともども、宇喜多秀家の旧臣であり著名なキリシタン武将であった明石掃部(かもん)全登の勧めで大坂城に入ったとされる。
この大阪の陣では、信仰の自由を約束されたカトリック系のキリスト教信者がぞくぞくと大阪(豊臣)方に味方していたのだ。こうして本来ならば、親兄弟のいる寄せ手、即ち徳川方にあって一軍の大将ともなるべき男が、敵方の、しかも絶望的な状況の大阪方に加わった。(ちなみに、高山右近などの名立たるキリシタン大名は、この時点で既に徳川幕府からルソンなどの国外に放逐されていた)
そして冬の陣が起こると彼は、船手役を務めていた明石全登の隊(キリシタンで構成された部隊)に属して本業の水軍の将として戦うことになる。軍船と三十騎ほどの部下を与えられたというが、戦闘での詳細は伝えられていない。また一説にはこの時、同じキリシタンである全登の養子になったともいわれる。
その後、翌年(1615年)の夏の陣で彼は、豊臣方として最後まで勇敢に戦い、奮戦の後に討死したと伝えられている。
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