前出の「御降誕考」によると、天王寺・岡山の戦いを前に周囲から逃亡を勧められた権之丞は、「自分が家康の庶子であるとの風聞があり、大坂方からも裏切りを疑われていることは知っているから、何としても秀頼公への忠義の為に最後まで奮戦して、討死するつもりである」と述べたという。
権之丞の最後は、天王寺口で多勢の敵に突入して討死したという伝承と、天満橋で戦死したという言い伝えがあるそうだが、天王寺口説では越前松平忠直の軍勢と遭遇したとされる。
松平勢の中に権之丞を知る者がいて諌めて逃げるように声を掛けたが、「自分は仮にも大御所の子と噂のある身だ。その様な立場で、何の功名・手柄もたてず逃げ出したとあっては、徳川の家中からも笑い者になるばかりだ。この上は潔く討死するまでである」と答えて、攻撃を手控えていた多勢の徳川方の軍勢に単騎突入したという。
その死後、その首級は首実検で徳川家康のもとにもたらされたとされているが、我が息子の首級を家康がどんな想いで見ていたのかは残念ながら記録には残されてはいない。
また権之丞の指揮した軍船は徳川水軍に捕獲され、夏の陣の後に家康の命で三河の大崎の水軍の将だった中島与五郎の子息に与えられようとした、という話も伝わっている(真偽不明)。
更に、権之丞の妻は天王寺表の戦闘に参加していた九鬼長兵衛の室となったという説もあり、これは、権之丞の軍船と避難していた妻子を長兵衛が拿捕した為とされている(同じく真偽不明)。
一方では良くある話だが、権之丞の地元幡豆の伝承では、彼は戦死を免れて行方知れずになったという。更には、一旦、明石掃部ともども九州のどこかに潜伏して、後には修道士となって東南アジアの何処かに逃れたとの説も存在している。
権之丞は徳川家康の落とし胤(だね)として生まれながら、幡豆小笠原氏へ養子に出され、その後、父親の意思に反してキリシタンとなり、大坂夏の陣で敵将として散った武将とされている。父である時の権力者家康に反抗しながら、あくまで信仰の自由に殉じた人物であった。
ちなみに、小笠原諸島は、天正20年(1592年)に一族の小笠原貞頼が発見したことに因んで名付けられたとも言われるが、権之丞が探検の末に発見したという創作(火坂雅史『家康と権之丞』)も発表されている。
-終-
【参考】
小笠原貞頼が徳川家康に命じられ、南方探検に出た際に小笠原諸島を発見しているといわれている。しかし、小笠原氏の系図にはこの人物は存在しない。
江戸時代の初期、松浦党の島谷市左衛門尉が探検。寛文10年(1670年)2月20日に紀州を出航した蜜柑船(長右衛門ら7人)が、母島に漂着し八丈島経由で伊豆下田に生還したことで、この諸島の存在が下田奉行所経由で幕府に報告され、現在ではこの報告例が最初の発見報告と考えられている。
延宝3年(1675年)に江戸幕府が漂流民の報告を元に調査船富国寿丸を派遣し島々の調査を行い「此島大日本之内也」という碑を設置する。当時は無人島(ブニンジマ)と呼ばれた。
享保12年(1727年)に、貞頼の子孫と称する小笠原貞任なる者が貞頼の探検事実の確認と島の領有権を求めて幕府に訴え出る。実際に小笠原諸島と呼ばれだすのはこれ以降のことである。最終的に貞任の訴えは却下され探検の事実どころか先祖である貞頼の実在も否定された。この為、後に貞任は詐欺の罪に問われ、財産没収の上、重追放の処分を受けた。
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