うさみみコロンボ(略称 = 「う★コロン」)です。Kijidasu!の記事の中でも人気のジャンルが都市伝説だと聞きました。
そこで、「う★コロン」もこのジャンルに進出することにしました。
さて初回は前・中・後編の3回に分けて、『ヴォイニッチ手稿』の解読に挑戦です!!
1912年のこと、イタリアのローマ近郊フラスカッテイにあるヴィラ・モンドラゴーネのイエズス会修道院で、不思議な古文書が発見されました。書庫の古い道具箱の底に眠っていたというこの古文書には、誰もが見たこともない文字と奇妙な色とりどりの絵、例えば不思議な植物や裸の女性たち、そして占星図のようなものが描かれていました。
そしてこの謎の古文書を買い取ったのが、ポーランド系アメリカ人の古文書などを主に扱う古書籍商ウィルフレッド・ヴォイニッチという人物で、今日ではこの古文書は彼の名前を取って、「ヴォイニッチ手稿(Voynich Manuscript)」または「ヴォイニッチ写本」と呼ばれています。
但し 「写本」と云われても、これがオリジナルなのか写本なのかも解りません。
またヴォイニッチが入手したこの古文書には、一通のラテン語の手紙が添付されていました。差出人はプラハ大学の学長ヨハネス・マルクス・マルチで、宛先はローマ在住のイエズス会の学者アタナシウス・キルヒャーです。日付は1666年(1665年とも)8月19日でした。
キルヒャーは、当時の著名な万能・博学の学者でありエジプトの神聖文字ヒエログリフの解読に挑戦したことなどが知られていました。そこでこの古文書の解読を託す人物として白羽の矢が立てられたのでしょう。ちなみにヒエログリフは1800年代前半になって、フランスのシャンポリオンがロゼッタ・ストーンを読み解いて解読に成功しました。
ところでキルヒャー先生宛の手紙の内容ですが、先ずはマルチ学長が所蔵していた「ヴォイニッチ手稿」をキルヒャーに寄贈すること、そしてこの古文書の解読をお願いします、との依頼が記載されていました。また以前にはこの古文書は神聖ローマ皇帝ルドルフ2世が600ダカット(現在の価値で数千万円と云われる)で買い取って所有していたことなども記されていました。
しかしその後キルヒャーは、この古文書の暗号の様な文章の解読にチャレンジしましたが、成果は得られなかった様です。
こうして「ヴォイニッチ手稿」は、1870年の教皇領のイタリア王国への併合までローマ学院に所蔵されていました。
またこの手紙とは別に、手稿の最初のページの余白にはかすかな文字で、ヤコブズ・デ・テペネチという名前が記載されていることが判明しました。
この手紙の内容と、その後の調査で 「ヴォイニッチ手稿」の来歴の一部が解ってきました。
先ずは1576年~1611年にかけて神聖ローマ皇帝のルドルフ2世が、在位期間中に何者かからこの手稿を600ダカットで購入していたということ。
その後、1608年~1622年にかけてヤコブズ・デ・テペネチなる人物が皇帝ルドルフ2世からこの手稿を譲り受けます。彼はボヘミアの科学者・薬学者で、「シナピスの水」という薬を発明したことで大きな財産を築きました。1608年にはルドルフ2世の病気を治療したことから、「デ・テペネチ」という称号を授与されて貴族となっています。手稿にはこの称号が記されているため、称号を授与された1608年から亡くなる1622年までの間の期間に、ルドルフ2世から手稿を譲り受けたと考えられています。
ヤコブズ・デ・テペネチは大変「ヴォイニッチ手稿」に関心を示しましたが、彼の知識ではこの文書の暗号の解読は不可能でした。しかし「ヴォイニッチ手稿」の表紙にあったヤコブズ・デ・テペネチの署名こそは、公(おおやけ)にこの手稿の最初の持ち主を証明する重要な記録と言えます。
やがて錬金術師のゲオルグ・バレシュが手稿を入手。彼は1630年代までの間、この 「ヴォイニッチ手稿」の暗号文書を解明しようとしましたが成功しませんでした。彼は、この手稿に関して記録には残されていない何らかの情報を、以前の持ち主から聞き及んでいた可能性があります。またバレシュは手稿に関してアタナシウス・キルヒャーへ手紙を書いて意見を求めています。
更に、1640年代までにはバレシュの友人であるマルクス・マルチが手稿を譲り受けました。マルチ学長は、この古文書が13世紀の大変有名なイングランドの僧侶ロジャー・ベーコン(英国の神学者・自然科学者)が著した書物だと考えていました。これも推測の域を出ない話ですが、ルドルフ2世がこの古文書を密かに購入した際に、その出自に関してベーコンのものであるという説も併せて伝わっていた様(後述)なのです。その話をマルチは、フェルディナント3世の宮廷教授(進講役)であったミヒャエル博士(ヤコブズ・デ・テペネチなどと同時代から宮廷に出仕していた)などから聞き知っていた模様です。
そして前述のようにマルチ学長は、1665年~1666年年頃に学者アタナシウス・キルヒャーに手稿を寄贈します。しかしこれ以降、この手稿が歴史上に再び現れるのは1912年を待たねばなりません。
こうして1912年にウィルフレッド・ヴォイニッチがヴィラ・モンドラゴーネで発見された手稿を買い取りました。
1930年にヴォイニッチが亡くなり、妻のエセルと秘書のアン・ニルが手稿を相続します。1931年には鑑定士のユージン・ホーマーによって、この「ヴォイニッチ手稿」は19,400ドル(現在の価格で約3千万円)の価値があると査定されました。その後、1960年には妻エセルが亡くなり、秘書のアン・ニルが一人で所有権を持つことになりました。
以後、1961年7月12日には手稿はニューヨークの古書籍商ハンス・クラウスに24,500ドルで譲られます。クラウスは購入後、手稿に16万ドルの値を付けて売り出しましたが、買い手は現れませんでした。
そこでクラウスは1969年には、アメリカのイェール大学に手稿を寄贈します。そしてそれ以降「ヴォイニッチ手稿」は、現在まで同大学のバイネッケ稀少図書・書簡図書館で保管されているのです。
その後「ヴォイニッチ手稿」は、2011年にアリゾナ大学のグレッグ・ホジンズ博士らによって年代測定が実施されました。イェール大学の協力も得て行われたこの測定では、手稿の羊皮紙のサンプルを複数使い、徹底的に洗浄後、放射性炭素年代測定が実施されました。
その結果では、羊皮紙の製作年代は1404年~1438年という測定結果が得られました。しかし、これは実際の執筆年代とは限りません。古い年代の羊皮紙を使用して、後の時代に書かれた文書である可能性もあるからです。
そこでこの結果は、「ヴォイニッチ手稿」が制作された最も古い年代を決定したものと考えられています。つまり、この文書が作られた最も古い年代は1404年であり、それより古くなる可能性は低いということなのです。
一方、おそらく上限の年代は、状況証拠を基にした推測となりますが神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の在位期間との兼ね合いから1500年代末から1600年初頭頃ではないかと考えられるのです。
ちなみにインクの年代測定が実施できれば、より明確な年代の特定が可能となりますが、残念ながら現在まではこの手法は確率されていません。
ホジンズ博士によると、羊皮紙の表面に付着しているインクの量がわずかであること、十分な量のサンプルが得られないこと、また羊皮紙とインクのサンプルを完全に分離させることが困難であることなど、またインクが鉱物由来であった場合、放射性炭素年代測定では年代の測定が困難であることなどが理由として挙げられています。
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