【歴史ミステリー】 ジャンヌ・ダルク伝説の謎に迫る!! 後編 〈2316JKI40〉

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ルーアン美術館のジャンヌ肖像画

前編ではジャンヌ・ダルクが王家の血筋を引いていたという伝説についてご紹介しましたが、後編では火刑後の生存説についてお話します。

また、彼女の幻視と精神疾患の関連についての考察にも、ごく簡単に触れたいと思います・・・。

それではヨーロッパ中世史最大のヒロイン、ジャンヌ・ダルクの謎に迫る歴史ミステリーの後編をお楽しみください!!

 

それでは早速、ジャンヌに関する二つ目の都市伝説をご紹介しましょう。

《生存説について》

イングランド王国は、仇敵ジャンヌを捕らえたブルゴーニュ公国からその身柄を10万フランで買い取り、何としても彼女を亡き者としようとしていました。

一方、フランス側はブルゴーニュ公国に身代金を払うことでジャンヌを救出可能であったにもかかわらず、シャルル7世は彼女を見殺しにしたのですが、この点については、既に和平工作が始まる中で対イングランド強硬派の急先鋒であったジャンヌを、厄介払いする意味もあって切り捨てたのだろうと想像出来るのです。

1431年1月9日に、イングランドの占領統治府が置かれていたフランス北西部の町ルーアンで、ジャンヌの異端審問裁判が開始されました。裁判を主催したのは、ボーヴェ司教のピエール・コーションという聖職者でしたが、以前よりブルゴーニュ派やイングランド王国との関係が強く、ランス解放で司教の座を追われたことなどでも、 ジャンヌを強く恨んでいたとされます。

(事実上イングランド側の手先であった)異端審問法廷は、頭脳明晰なジャンヌの反対証言に手古摺りながらも強引に審問を進めていきました。また半ば脅迫したり騙す様な手段で得た証拠も多数あったといいます。

そして1431年5月30日、 ジャンヌ・ダルクはこの異端審問の結果、(決定的な有罪証拠が見つからなかった為に、再び男装をしたことを強引に問題視して)有罪とされて火刑に処されます。この時、(本人の申告によると)19歳だった彼女は、魔女の烙印を押され生きたまま焼き殺されたのでした。

ところが、その処刑の際に、民衆の前に引き出された彼女の顔がすっぽりと覆われていたという証言があり、また警備の兵士が、彼女の姿がよく見えない様に見物の民衆を(一説には800mも)遠くへ排除したとの話もあるのです。

火刑の後、処刑者たちが薪の燃えさしを取り除いて、黒焦げになったジャンヌの遺体を人々の前に晒したとされます。更にジャンヌの遺体が遺物となって人々の手に渡らないように、再び火がつけられて完全な灰になるまで燃やされた上で、その灰は、処刑者によってセーヌ川へ流されたと伝わっています。

こうして結局は、見物の一般民衆には、処刑されたのが本当のジャンヌ・ダルクであったのかを確認する手立てはありませんでした。

ジャンヌの仲間(処刑の場所にはラヴニュやマシュー、イザンバールといったメンバーがいた)が彼女を救出したとする考え方もありますが、イングランド王国側が何らかの理由ですり替え計画に加担したとの説もあるのです。それは彼女を見殺しにしたシャルル7世との対立軸として、ジャンヌを中心とした急進的なアルマニャック派の武力闘争に期待したとされるものです。

こうして実際は火刑前にジャンヌは秘密の地下道から脱出しており、代わりの罪人が処刑されたのだという都市伝説が生まれました。

 

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