そしてこの説を裏付けるように、5年後の1436年5月に、ロレーヌのメッツという町にジャンヌと名乗る25歳くらいの女性(以前はクロードと呼ばれていました)が現れたのです。(アナトール・フランスの記述にもあります)
この後も、彼ら兄弟の他に多数の処刑前(生前?)のジャンヌをよく知る人々と、この女性は会いますが誰もが偽物だとは言いませんでした。
(プチ)ジャンはこの出来事をシャルル7世に報告しますが、不思議なことに王はそれほど大きな驚きも示さずに、ジャンに100フランの報奨金を与えたに止まります。
また1436年には、オルレアンの町の公式文書に、このジャンヌを名乗る女性からの書簡の郵便代金として配達料を支出した旨の記録が残っています。
以降、彼女はヴェルテンベルグのウルリッヒ伯爵に同行してケルンを訪れた際に異端審問官に追われたりもしますが、アーロンのルクセンブルグ公爵夫人の邸宅でロベール・デ・ザルモアーズ(アルモアール)という貴族と出会い、結婚して、ジャンヌ・デ・ザルモアーズとなります。
そしてロベールの屋敷があったメッツに移り住んで、その後の3年間に2人の子供をもうけたとされているのです。
1439年には彼女はオルレアンを訪問します。ここでザルモアーズ夫人は、かつての功労に報う為として210リーヴルの金銭を町の有力者たちから受け取っています。それ以降、オルレアンの町ではジャンヌ・ダルクの追悼ミサは行われなくなりました。
オルレアンを後にしたザルモアーズ夫人が、トゥールから国王に書簡を送付したり、かつての盟友ジル・ド・レに再会したのではないか、とも云われています。
このジル・ド・レはブルターニュ地方の貴族で、フランス元帥の称号を持ち、フランス王国大元帥ベルトラン・デュ・ゲクランの曾姪孫に当たりますが、黒魔術にのめり込みサディステックな犯罪者として絞首刑となってその死骸は火刑とされました。
1440年、遂にザルモアーズ夫人はパリで国王シャルル7世に拝謁しましたが、王は彼女を偽者と判定します。こうして彼女は公衆の前で騙りの罪を認めて謝罪させられたと「パリ市民報」は伝えています。
しかし生存説支持者は、これは政治的な干渉によるもので、真実ではないとしています。もともとの反ジャンヌ・ダルク側の勢力はもちろんのこと、教会やパリ大学などにおけるジャンヌ復権を目指す人々にとっても、生きた彼女の出現は困惑以外の何物でもありませんでした。
これはある意味「ポワチエ調書」に対する法王庁の扱いと似ており、死する英雄・永遠の処女だからこその名誉回復運動であるのに、生きているのみならず結婚までして子供もいるのです。
そこで偽物として糾弾し、社会的に葬ろうとしたのでしょう。
しかし不可解なことには、ザルモアーズ夫人はその後はメッツに戻り、今まで同様にジャンヌとして暮らしました。家族たちも旧知の人々もジャンヌとして接していたようです。そしてそれから14年後にソムールという町の記録に彼女の名が記載されていますが、それを最後にザルモアーズ夫人の足跡は歴史からは遠ざかるのでした。
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