さて本記事《前・後編》では、ジャンヌにまつわる都市伝説的な逸話を中心に取り上げるべく、当時の歴史的な背景、例えば百年戦争の開戦理由とその経過や、彼女の従軍の切っ掛けや戦歴に関する詳細な経緯については割愛しましたが、その仔細を追いかけると、彼女の軍事的な才能と人心掌握能力の高さが明らかになります。
純粋な軍事面の特徴としては、ジャンヌが採用した敵弱点への弓矢投石や銃砲火の集中と積極的な攻勢突破が、その後のフランス軍の戦術に影響を与えたとされます。これは、当時の騎士たちや傭兵主体の軍隊では、敵側の弱点を殊更に突くことや、必要以上に積極策をとることをよしとはしませんでした。我が身大事で大きな怪我をしない程度の、ほどほどな戦い方に終始していたのです。そこへジャンヌに率いられた兵たちはガムシャラな戦い方で参戦したのですから、当初のイングランド軍はその対応に苦慮したと考えられます。
但しランス解放後は、彼女のその戦争指揮に陰りが見えてきますが、それは戦術レベルの戦いの連戦から、戦略レベルのフェーズに移行する節目がちょうどランス攻略戦であり、百年戦争の終結という大きな戦略レベルでは、その後のシャルル7世の一見慎重にみえる方針が正しかったとも考えられるのです。また多少なりとも、それまでの連戦連勝で、さすがのジャンヌにも驕り高ぶる気持ちがあったのかも知れません。戦争の完全なる終結を得る為には、武力のみで押し切るのは困難であり、政治的は調整が不可欠であったのですが、そこにはジャンヌの関与する場所は無かったとも言えます。
しかしジャンヌの果たした役割の本当の偉大さは、彼女が真に理解していたかどうかは別として、フランス王国の臣民に、フランスという国に対する国家意識と愛国心を芽生えさせたことなのではないでしょうか。
またジャンヌは単なる旗手として戦いに参加して、騎士や従者たちの士気を鼓舞していたともされますが、その戦術眼の確かさ(勝敗の予見などに現われている)で徐々に各級指揮官たちからの支持を勝ち取り、やがて勇敢な戦士(複数回にわたり負傷しながらも戦闘に従事している)として多くのフランス軍下級兵士たちからも尊敬されていきました。
そしてフランス軍快進撃の立役者となりますが、最後には悲劇的な結末が待っていたのです。
祖国フランスの為に、若き生涯を捧げたジャンヌの不幸な人生を見かねた多くの支持者や民衆の願いが、王家の血を引く身であるとか、生存して結婚もしたといったジャンヌ・ダルク伝説を生んだのかも知れません。
もちろんナポレオン1世や3世の時代とその前後の各年代において、彼女の存在がフランスのナショナリズム高揚やプロパガンダに利用されたことは否めませんが、いかに過小評価をしようとも(前編の冒頭に述べた通り)、あの時代に若干19歳にして歴史を動かしたことは、極めて驚くべき成果であることは間違いないのです・・・。
-終-
【歴史ミステリー】 ジャンヌ・ダルク伝説の謎に迫る!! 前編・・・はこちらから
【参考】
1867年にパリの薬局で、「オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルクの火刑場跡から採取された」という説明書が付属した薬瓶が発見されました。
この瓶の中には黒焦げの人骨や炭化した木材、麻布の切れ端、そして猫の大腿骨(魔女を火刑に処する時にともに焼かれる黒猫の骨)が入っていました。
これらは現在、シノンの博物館に保管されていますが、2006年2月にレイモン・ポワンカレ病院の古病理学者で法医学者でもあるフィリップ・シャルリエ氏らが、放射性炭素年代測定や分光分析などを駆使してこの遺物を調査した結果として、この内容物が紀元前6世紀から紀元前3世紀のエジプトのミイラであることが判明しました。
黒く変色したのは燃焼によるものではなく、死体の防腐処理に使用された薬物によるもので、また当時ミイラ造りに使用された松脂にあたる大量のマツの花粉も発見されました。また燃えた痕跡のない麻布は、ミイラを包むときによく使われた素材です。
中世ではミイラが薬物の原料のひとつとされており、この遺物も元々はその様な薬瓶だったものが、「ジャンヌ・ダルクの遺物」として偽造に利用されたものだと考えられるそうです。
2006年12月17日に公表された暫定的な報告書では、この遺物はジャンヌ・ダルクには無関係である、と結論づけられました。
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