【ノルマンディー上陸作戦70周年記念(6)】 6月6日Dデー・・・上陸作戦当日・後編 -1、米地上軍の戦い 〈3JKI07〉

なんとか海岸に上陸した兵士たちは、その多くがほとんど隠れるべき構造物の無い状態の海岸に放りだされていた。しかも僅かに利用可能な遮蔽物周辺は独軍の猛烈な射撃により安全を無効化されていたが、それでも彼らは多数の犠牲を出し乍ら、味方の艦砲射撃によりしばし沈黙している独軍陣地の隙をついて、また霧と煙幕弾による視認性の低さをたよりに海岸を横切りようやく正面の崖に到達し始めた。

その後、生き残って独軍の沿岸防御線に到達した米軍兵士たちは、ある時はバンガロール爆薬筒を使い、またある時は直接崖を攀じ登って、決死の覚悟で鉄条網や地雷原を通り過ぎて独軍防衛線を突破していく。

この時、現場の幹部指揮官たちは部下たちを叱咤激励、督戦に励んでいた。映画『史上最大の作戦』でも描かれたように、第29歩兵師団の副師団長ノーマン・コータ准将の言葉、「レンジャーが道を拓け!」(後に米軍レンジャー部隊のモットーとなる言葉)や第16歩兵連隊長ジョージ・テイラー大佐の「この浜にいるのは、もう死んだ奴とこれから死ぬ奴だ。死にたくなければ前進しろ!」は有名。

こうした督戦の影響か、先鋒部隊は悪戦苦闘しながらも徐々に立ち直りを見せた。やがて、いまだに上陸部隊に射撃を続ける独軍防御施設は、頑強に抵抗したいくつかの防衛拠点を除いて、この防衛線を突破・迂回した米軍兵士たちにより背後・後方から破壊されていった。

 

その同じ頃、オマハ・ビーチの西隣、オック岬(Pointe du Hoc)の独軍コンクリート要塞は米軍第2レンジャー大隊の攻撃目標であった。彼らの任務は敵の砲火を掻い潜りながら、アンカー付ロープと縄梯子を用いて高さ約30mの断崖を登攀、ユタ・ビーチとオマハ・ビーチを射程内とした要塞砲を破壊することであった。この要塞砲はオマハ・ユタの両海岸に展開する部隊や沖合の艦船にとっての大きな脅威であり、なんとしても制圧する必要があったのだ。

その後、レンジャーたちは悪戦苦闘の末になんとか崖の上に到達したが、要塞の砲座はもぬけの空であったという。(爆撃を恐れて一旦撤去された重砲は再度砲座には据えられていなかったとも、当初から配備が間に合っていなかったという説もある。更に、移動された砲は見つかり破壊されたとの資料もあり) しかしこのレンジャー部隊の死傷率は50%近くに達したとされる。

 

オマハ・ビーチへの上陸は、米軍に大損害を与えたのは確かである。第1歩兵師団の公式記録は「上陸用舟艇のタラップがおりた瞬間、先導の中隊は活動不能となり、指揮官不在により任務遂行が不可能となった。指揮をとる全ての士官と下士官はほぼ死亡もしくは負傷した。部隊は、生存と救出を求めてもがいていた」、「上陸部隊の第一波は独軍守備隊の抵抗により海岸へ釘付けとなり、死傷者が続出。そこへ第二波以降の部隊が次々に詰め掛け、海岸線はパニックに陥った。その光景はさながら、地獄絵図そのものであった」と、記している。

そして、ほとんどの者が最初の数時間で斃れたとされ、米第5軍団の兵士の死傷者は2,500名とも4,000名とも言われる多数を数えた。こうしてオマハ・ビーチは、ネプチューン作戦の5つの上陸地点の中でも飛び抜けて死傷率が高かったので、『ブラッディ(血まみれの)オマハ』(Bloody Omaha)と呼ばれているのだ。

しかしこの様な多大な犠牲を払いながらも、第5軍団は午後1時頃には独軍の海岸防衛戦を突破し、その日の夕刻頃までには約1.5kmほどの縦深を持つ橋頭堡を確保し、またある程度内陸部への進出を果たした。

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