一方、オマハ・ビーチとは対照的に、米軍第4歩兵師団(「アイビー」)はごく軽微な死傷者を出しただけで、夜明け直後のユタ・ビーチ(Utah Beach)への敵前上陸に成功していた。
このユタ・ビーチ上陸作戦は、上陸用舟艇がより多く利用可能となった以降、計画立案の最終段階で侵攻計画に加えられた作戦対象であった。また、もし他の上陸地点での作戦がすべて失敗した場合に、後続の全軍が上陸してコタンタン半島を占領、シェルブール港を奪取するための橋頭堡となる役割を持っていた。
ユタ・ビーチでの死傷者数は197名とされ全上陸地点の中で最少であったが、これは潮流や視界不良などにより、当初予定されていた上陸地点から南東へ1.8kmほどずれたのが、かえって幸運となった為(後述)である。
ユタ・ビーチは3マイル(約4.8km)の幅があり、5つの上陸地点の内で最も西側に位置しており、プップヴィル(Pouppeville)とラ・マドレーヌ(La Madeleine)の間に位置していた。上陸第一波の右翼(西側)担当部隊は、レ・デュヌ・ド・ヴァルヴィル(les Dunes de Varreville)の強固な防衛拠点の向かい側にあるテール・グリーン・ビーチ(Tare Green Beach)に上陸した。また左翼(南東側)担当の部隊は、南東へ約1,000ヤード(910m)ほど離れたアンクル・レッド・ビーチ(Uncle Red Beach)に上陸する予定であった。
ちなみに上陸部隊の先鋒は、第7軍団所属の第4歩兵師団第8歩兵連隊戦闘団とシャーマンDD戦車装備の第70戦車大隊2個中隊であった。
第一波の第8歩兵連隊戦闘団2個大隊(第1大隊・第2大隊)ほかの兵士を乗船させた20隻の上陸用舟艇は0630時に作戦開始地点に予定通り到着したが、波高が1.8mもあり、舟艇は大きく揺れていた。
その第一波と共に、八隻の戦車揚陸艦の各々が4両のシャーマンDD戦車を運搬(内一隻は触雷により沈没)、可能な限り歩兵の上陸と同時に戦車を上陸させる予定であったが、波の荒い海面を観たこの戦車輸送隊の指揮官の判断が適切を得て、海岸線に2,700mまで近づいてからDDを発進させたおかげで28両全部が無事上陸に成功し、その後の戦闘で大活躍することが出来たのだった。
第二波の部隊は、2つの歩兵大隊の増援を乗せた合計32隻の上陸用舟艇で編成されており、その後の第三波は、第一波部隊の上陸15分後に八隻以上の揚陸艦に工兵車両(ドーザー戦車など)を搭載、更に2分後の第四波部隊では、第237と第299戦闘工兵大隊の主力が上陸して海岸にある障害物を撤去する予定だった。
実際には最初の上陸は第8歩兵連隊戦闘団の第2大隊によって行われ、数分後には第1大隊が到着した。しかし両部隊ともに予定の海岸よりも南東に上陸してしまう。
こうして、第4歩兵師団の先遣部隊(第8歩兵連隊戦闘団基幹)は当初の作戦計画とは異なり南東側へ1.8kmもずれて上陸していたが、上陸第一波と行動を共にしていた副師団長のセオドア・ルーズヴェルト・ジュニア准将(セオドア・ルーズヴェルト大統領の子息)の決断で、そのまま作戦行動は続けられたのだった。
ルーズベルト准将は、自分の上陸用舟艇が予定到着地点から南東に流されていることを確認すると、内陸部へ向けた道路の探索と海岸の後方の地域の偵察活動を即座に実行に移した。
そして彼は上陸地点へと戻ると、第8歩兵連隊戦闘団の2つの大隊(第1大隊と第2大隊)の指揮官であるコンラッド・C・シモンズ中佐とカールトン・O・マックネリー中佐に指示を出した。当初の作戦計画とは異なるが、現状の上陸地点を起点に攻撃を実施すると。そしてこの時の状況を表した准将の有名な言葉が「諸君、我々はここから戦いを始めるとしよう!」として残っている。
引き続き上陸した増援部隊の工兵や砲兵たちは、いつもの様に足を引き摺りながらも沈着冷静なルーズベルト准将により迎えられる。その顔には多少の疲労の色は見えたものの、まだまだユーモアの感覚と自信を失ってはいない彼は、テキパキと各部隊に作戦目標の変更を指示していった。更に准将は、独軍の砲火が未だ時折降る中において自ら部隊の行軍整理を行い、海岸から内陸部に進撃しようとする大量の戦車や装甲車、トラックなどが引き起こす交通渋滞の解決を図った。そしてこの一連の行動により、後に彼は名誉勲章を授与される事になる。
またこの上陸地点の誤差により、内陸部への進撃路が少ないという弊害はあったが、逆に第4歩兵師団の将兵は独軍の抵抗が少ないというメリットを享受することとなった。