《ファンタジーの玉手箱》 大盗賊、石川五右衛門の真実とは? 〈2354JKI40〉

石川五右衛門102 101-0771
歌川国貞作 『石川五右衛門』

私たち(凛虞 & 徹劤)の記事、(《ファンタジーの玉手箱》シリーズ)『幻術士、果心居士とは何者だ?』が好評を頂き、読者の皆様には御礼申し上げますが、同じ幻術遣いの忍者と云えばある意味では同類の、しかし、もっともっと武闘派よりで、少々手癖が悪い質(たち)に方向性が振れると『石川五右衛門』サンなんぞになるんだろうなぁ、なんて思いますよネ・・・。

そこで、今回の《ファンタジーの玉手箱》は、その五右衛門さんに登場願うとしましょう。

 

石川五右衛門とは・・・

いきなり結論から入ると、石川五右衛門とは安土桃山時代に実在した盗賊なのです。豊臣秀吉に命じられた京都所司代の前田玄以によって捕縛されて京の三条河原で処刑されるまでは、主に畿内の都市部を荒らしまわった盗賊団の首領でした。

一説には白昼堂々と派手な衣装で立派な駕籠に乗り、100人にも上る大勢の子分を武士に仕立てて大名行列を装い、京や伏見、そして大阪の武家や豪商の屋敷や裕福な寺社などへと押し入り、大量の金品を盗む泥棒家業を重ねていたのです。

※五右衛門率いる盗賊団は、密かに狙った家屋に忍び込む泥棒集団と言うよりは、まるで徒党を組んでお宝を強奪する武装強盗団ですよね・・・。実際のところは、野盗や山賊の類だったと考えてよろしいかと。

以前は存在それ自体が疑問視され創作上の人物と考えられていましたが、最近では、五右衛門が捕えられて処刑された事が当時の公家で権中納言の山科言経の日記(『言経卿記』)や在日スペイン人の貿易商人アビラ・ヒロンの『日本王国記』などで述べられており、同様のことがイエズス会の宣教師ペドロ・モレホンの日記にも記載されていることから、その実在が確認されたのです。但し、それらの史料には処刑に関してのみが記述されているので、彼の生涯に関しては盗賊だったという事だけが判明しており、その他については未だに謎ばかりで詳細は不明なのです。

※『言経卿記』には文禄3年8月24日(1594年10月8日)の日記部分に盗賊処刑の事実(「盗人、スリ十人、又一人は釜にて煎らる。同類十九人は磔。三条橋間の川原にて成敗なり」)のみが書かれていて、石川五右衛門の名前は記述されていません。しかしアビラ・ヒロンの『日本王国記』(1656年著)には「・・・都を荒らし廻る盗賊団があり、其の中の15人の頭目が官憲に捕えられ、京都三条の川原で生きたまま煮られた・・・」との記載があり、ここに当時イエズス会の京都修道院長だったペドロ・モレホンが、「この事件は1594年の夏」のことであり、また油で煮られた盗賊の親分の名前を「ixicava goyemon」であったと注釈しています。

※『続本朝通鑑』や『歴朝要紀』にも、五右衛門が前田玄以に捕えられたことが記載されています。

※ 徳川家康に支援されていた言経は豊臣秀次にも仕えていましたが、彼が秀次とその家臣団の内情や秀吉と秀次の確執等についての情報を、適宜、家康に報告していたことが『言経卿記』からは読み取れます。つまり山科言経は、家康のスパイ(協力者)なのでした。

 

その他の資料で石川五右衛門の足跡を見出せるものは、処刑から半世紀余りを経た寛永19年(1642年)に編纂された『豊臣秀吉譜』(林羅山編)という書物において、

文禄の頃、石川五右衛門なる盗賊が、強盗、追剥などの悪逆非道を働いたので、秀吉様が京都所司代の前田玄以にこれを逮捕させ、母親以下同類二十八人と共に三条川原で煎り殺した・・・

とあります。また上記の各史料にはそれぞれ多少の問題点やその信憑性についての疑いもありますが、それでも現在では、石川五右衛門という人物が安土桃山時代後期に盗賊団の首領として捕えられ、京の都で処刑されたという事実は、ほぼ間違いないと考えられています。

尚、彼の墓は京都の大雲院にりますが、一説にはこれは五右衛門が処刑の前に市中を引き回され際に、大雲院(当時は四条寺町下ルにあった)の門前に至った時、そこの住職に引導を渡された縁による、とされています。更にその戒名は「融仙院良岳寿感禅定門」とされ、これは処刑された盗賊としては破格の(と云うよりも不思議なことに)極めて立派な戒名なのでした・・・。

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