五右衛門と釜茹で
石川五右衛門は文禄3 年8月24日(1594年10 月8日)に、豊臣秀吉の命で捕縛されて京都三条河原において「釜茹で」の刑により刑死します。この際に、
石川や 浜の真砂(まさご)は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ
という辞世の句を詠んだ事でも有名ですが、まぁ、但しこれは後世の創作等での架空の話ですから、真に受けないで下さいネ。(忍者くずれの盗賊風情が、こんなに和歌の作法に詳しいハズはないのですが、それなりのお家に仕えた元武士ならば、ギリギリのところでセーフかも知れません。でも、あまりの熱さと激痛で辞世を詠む余裕などは無いと思いますけれど・・・)
さてその解釈は、「石川(多くの石がある川、自らの姓にかけている)の浜にある砂粒がどんなに多くても、一粒毎に数えていけば、やがては数え尽すことが出来るだろうが、(自分たちが死んだ後でも)決して盗人の数は数え尽すことができない、つまり世の中から未来永劫に盗人がいなくなることはないだろう」といった様な意味です。
またこれは、刑吏や多くの見物人たちに対して「この五右衛門を殺せば、五右衛門が盗みをすることは二度となくなるだろうが、人間の本性に盗人根性がある限り、この世から泥棒稼業はなくならないぞ!!」と皮肉った言葉なんでしょうね。
※この句は、古今和歌集にある「わが恋は よむともつきじ 荒磯海の 浜の真砂は よみ尽くすとも」の本歌取り(和歌の作成技法の1つで、有名な古歌〈本歌〉の1句もしくは2句を自作に取り入れて作歌を行う方法)だと言われています。
ところでこの「釜茹で」の刑ですが、その処刑の方法は現代の五右衛門風呂の様に釜の中で熱湯を浴びたのではなくて、釜の中に入れた油で煎り殺されたというのが本当の様で、それはまるで「油煮」と表現した方が正しいでしよう。
そして処刑の時、五右衛門の子供も一緒に処刑されたとの話もあり、この時の子供の最期については巷説が複数あり、我が子を守る為に釜の中で自らが息絶えるまで抱え上げていたという説や、逆に苦しい思いをさせまいと一思いに釜の中に沈めて即死させたという説がありますが、それどころか正反対の風聞として、あまりの熱さに我が子を下敷きにしたとか、踏み台にして逃れようとしたなどとも言われています。また五右衛門の母親も同じく釜茹でにより処刑されたとされており、その他の配下も釜茹でや磔の刑により処断されたと伝わります。
実際の罪状がどの様なものであったのかは不明ですが、秀吉の目には五右衛門が只の泥棒ではなく、自分の権威への反抗者として映り、その結果として広く民衆に強い印象を与える過去に例のない極刑を科したということは十分考えられます。
しかしそのことが逆に庶民には五右衛門の行動に反権力的な雰囲気を感じさせて、義賊・五右衛門のイメージの形成に繋がったのではないでしょうか・・・。
当時(否、江戸)の庶民は、五右衛門が時の権力者で暴君でもあった秀吉に大きな反感を持ち、民衆の味方としてその命を狙って伏見城に忍び込み、あと一歩という処まで迫ったと思ったのです
しかし、石川五右衛門に与えられた刑罰がどうして釜茹での刑だったのか? という謎が残ります。日本の刑罰史上では、釜茹での刑というものは蒲生氏郷が好んで執行した例を除くと前田利家が執り行ったぐらいで、他ではあまり多くは見受けられません。秀吉の時代に突如として現れ、そして唐突に姿を消しているのです。
古代のオリエント地方が発祥とされますが、中国などでは度々行われていた刑罰です。しかし見せしめというだけなら、先に信長の命を狙った杉谷善住坊の処刑に模して「鋸引き」(我国ではこちらの方が伝統的で一般的!?な極刑)という方法もあった訳で、何故この頃、急に釜茹でという処刑手段が用いられたのかは少々不可解なところではあります・・・。