《ファンタジーの玉手箱》 大盗賊、石川五右衛門の真実とは? 〈2354JKI40〉

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歌川豊国作 『東海道五十三次之内 京 石川五右衛門』

現実にも、秀次事件に連座した木村重茲は摂津国茨木の大門寺で斬首、子の高成は切腹の後に梟首にされ、また他の木村の妻・娘は三条河原で磔にされました。粟野秀用も三条河原にて斬首されたとの説があります。他の秀次の家老、白江備後守は切腹。同じく熊谷大膳亮直之も切腹であることを考えると、木村重茲や粟野秀用は(切腹を許されない)重い処罰でした。

つまり石川五右衛門は、関白秀次の重臣であった木村常陸介重茲に命じられて豊臣秀吉の暗殺を引き受けた実行犯だったのです。個人的な恨みがあったのかは定かではありませんが、伊賀流の忍術の遣い手として、また忍び込みが得意な大泥棒であることを見込まれての依頼だったのでしょう‥‥。

 

そして泥棒とか盗賊というのは事実だとしても、秀吉の暗殺に失敗したことで彼はごく普通の打首などではなくて、残虐な釜茹で&一族皆殺しという刑罰に処されてしまうのです。

ちなみに、五右衛門が三好氏の家臣である石川明石の子であるとする説があることは紹介しましたが、豊臣秀次も一時期、三好家を継ぎ三好信吉と名乗っていました‥‥。

また、(前述の通り)彼の出自に関しては丹後国の伊久知城を本拠地とした石川氏の出であるとする説があります。この石川氏は丹後の守護大名一色氏の家老職を務めていたのですが、天正十年、一色義定の頃、伊久知城は豊臣秀吉の命を受けた細川藤孝の手勢によって攻略され石川左衛門尉秀門も討死します。落城の際、秀門の二男の五良右衛門が落ち延び、後に石川五右衛門と名乗りました。故に彼は豊臣秀吉を強く敵視していたとされ、盗賊に身をやつしながら父祖の仇討ちを考えていたとしても不思議ではありません。

ところで司馬遼太郎の出世作『梟の城』では、暗殺依頼の黒幕は秀次の代理人である木村重茲ではなく、なんと徳川家康の部下の服部半蔵なのです。これはこれでありそうな感じですよネ、いかにも狸の考えそうな謀略です。

 

繰り返しになりますが、どうしても釜茹でという処刑方法は、戦国の気風が濃厚なこの時代としてもいかにも異様であり、「よほど石川五右衛門は太閤秀吉様でさえ恐れさせるほどの大事をしでかしたのでは?」 という、当時の人々の想像を誘ったことは確かでしょう。

また(表向き)単なる盗賊対策にも関わらず、わざわざ秀吉が命じて京都所司代の重職にあった前田玄以が出張り彼を捕えて刑に処したとか、重罪人であるのに立派な戒名を与えられたという話など、石川五右衛門の死については依然として謎が多く残るのです・・・。

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