●迫田孝也さん演じる「矢沢三十郎頼幸」は、上記の矢沢頼綱の嫡男で但馬守を称しました。実名については頼康とする説も有力です。信繁(幸村)が上杉家の人質となった時に供侍の指揮官として加わり、越後では新発田家重の乱で軍功をあげて「上杉景勝」から賞されてもいます。北条氏の滅亡後に再度真田家が沼田城を獲得した際には、真田信之の家臣となっています。関ヶ原の合戦後も信之の家老として活躍、松代移封後も藩内で最大の家禄を持つ家臣(松代藩筆頭家老)として重用されました。寛永3年(1626年)3月21日に亡くなりましたが、享年には60歳から76歳まで諸説があり、不確かです。ドラマでは信繁(幸村)に付き従う忠実な若党(我が家では迫田孝也さんの真面目で爽やかな感じが好評)のような立場ですが、現実の頼幸は信之に仕える重臣でした。今後のドラマでは、信繁(幸村)と敵対する東軍(徳川)方となる頼幸がどの様に描かれていくのかに興味があります・・・。
●「小山田茂誠」(役者は高木渉さん)は、甲斐国の国衆、郡内小山田氏の一族で父親は小山田弾正有誠の可能性が高いとされています。正室は真田昌幸の長女「村松殿」で、天正10年(1582年)の武田家滅亡以前に結婚していたようです。茂誠は武田家滅亡時には父に従い北条家を頼りましたが、その後、天正18年の北条氏の滅亡後に真田昌幸に仕えました。慶長3年(1598年)以降、壱岐守を名乗り(昌幸から)真田姓を許されて一門の扱いとなったようです。関ヶ原の合戦では昌幸の配下として上田城に籠城しますが、戦後は信之に従い上田に残りました。しかし妻の村松殿のみならず義理の兄弟たちとも仲良く、信繁(幸村)からも近況を知らせる手紙が複数残っています。また『御家中系図』によると、信繁(幸村)の娘である「阿梅」を養女として、伊達家家老の片倉重長に嫁がせたとも伝わります。寛永14年(1624年)に77~78歳で亡くなりました。今回のドラマでは茂誠はコミカルな人物として描かれていますが、演じる高木渉さんはその役どころには適役ですね・・・。
●中原丈雄さんが演じるのが、「高梨内記」です。昌幸と信繁(幸村)が、関ヶ原の敗戦後に紀伊国九度山に幽閉される際に同行した供奉衆16人の内の1人です。そして昌幸の死後、他の多くの家臣たちは信濃国の信之の元へ帰国しましたが、内記と柳生清庵、三井豊前の3人は引き続き信繁(幸村)に仕えました。その後の大坂城入城にも従い大坂夏の陣で討死、最後まで信繁(幸村)に忠義を尽くしたのでした。彼は『本藩名士小伝』他によれば、信濃の国衆であった高梨政頼の子孫であるとされています。いつ頃から真田家の家臣となったかの確証はありませんが、第一次上田合戦で戦功をあげたとされています。信繁(幸村)の傅役であったとの説もありますが、娘が信繁の側室となり二人の女子をもうけたことは確かなようです。ドラマでは常に昌幸の帷幄の臣のように描かれていますが、実際にはより重用されていた重臣は他に多くいました。しかし信繁(幸村)との関係性(傅役?で義父)を鑑みた場合、大河ドラマ『真田丸』でスポットライトを浴びる人物として描かれていることは頷けます。そして中原丈雄さんの演じる内記も、真田家を支える忠臣として安心して観ていられますが、信繁(幸村)の終生の敵役である徳川家康の重臣である本多正信役の近藤正臣さんの曲者ぶりに比べるとあまりにも誠実一路に思えますが・・・。
●藤本隆宏さんが演じる「堀田作兵衛」は名を「興重」と言い、ドラマで「梅」と呼ばれる妹が信繁(幸村)の側室となりました。関ヶ原の合戦後は一時期、上田に戻り、妹の娘である「すへ」(信繁の娘)を養女として保護し、長窪宿の本陣の主人である石合十蔵道定に嫁がせました。しかし、その後の大阪の陣では信繁の元へ馳せ参じて奮戦するも、夏の陣において壮烈な討死を遂げた模様です。また、そんな優しくも剛直な性格の興重には藤本隆宏さんは適役に思えます。
●「出浦昌相」(役者は寺島進さん)は、出浦荘の豪族で村上氏の没落後は武田家に仕え、その頃から昌幸の与力であった可能性が高いようです。通称は、初め主水介、後に上総介から対馬守。武田家の滅亡後、織田家の「森長可」に従い、その後に上杉に追われて天正11年(1583年)頃には昌幸の配下に入りました。以降、信之の家老・奉行人を務めます。徳川時代となってからは本藩の上田藩に加えて沼田藩の「真田信吉」にも仕えました。そして元和9年(1623年)8月18日に78歳の高齢で没しました。法名は「円光院正辺信西」。『本藩名士小伝』では透破(忍者)の頭領とされており、大河ドラマでもその様な役柄を与えられており、演じる寺島進さんはハマリ役といえるでしょう。
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