久々の【名刀伝説】、今回は伊達家の名刀、大倶利伽羅広光を取り上げる。
大倶利伽羅広光(おおくりからひろみつ)は、相州広光の作とされる刀。享保名物帳に所載の名物・業物である。刀身の佩き表もしくは指裏(刀を腰に差したときに刀身の体に付く側)に大きな倶利伽羅(剣に巻きついた竜)が彫られていて、刀号の由来はその大きな倶利伽羅の彫り物にちなむ。刃長は2尺2寸3分(約67.6cm)、反り4分5厘(約1.7cm)で裏には腰樋と添え樋があるのみ。またこの刀の製作年代は南北朝時代であり、1350年頃との説が有力である。
地鉄は大板目、刃文は直刃調の小乱れで、盛んに刃縁ほつれる。中心は目釘孔一個であり、大磨り上げの無銘の刀となっている。
大倶利伽羅の磨上げに関しては、生ぶ孔が残っていないことに加え倶利伽羅の彫物の位置から「大磨上」と判断できる。彫物は磨上げと摩耗の結果でほとんど判別し難いが、龍の胴体の下には三鈷柄剣の三鈷部分があったと考えられている。彫物の位置から推察すれば、もともとの生ぶの刃区は茎尻の辺か、もう少し下の部分ではないかと思われる。
現状で刃長は2尺2寸3分(約67.6cm)、茎の長さが5寸7分(約17.3cm)とされるから、反りの誤差を含めても本来の刃長は2尺8寸(約84.8cm)から2尺9寸(約87.9cm)を超える大太刀であった可能性が高いとされる。
無垢鍛えの、皮鉄も芯鉄もないシンプルな構造をしている。また焼き入れも強めで、所謂、皆焼(ひたつらやき)となっており、折れず曲がらずの業物を実現している。このため、いくら研いでも大肌が出ることもなく、芯鉄(地鉄)も出ないとされる。また摩り上げの時期は、錆の分析などによれば戦国時代の半ば(1510~1520年頃)ともされている。
この刀の特徴である彫については、彫の中にわずかに有る錆の分析からは刀身と同じくらいの年代、また、茎の彫の底部の錆は、表面や茎尻の部分の錆よりかなり古く、摩り上げた時期より140~150年ほど古いということが解かり、おそらく作刀と同じ時期に彫られたものと思われている。
作者の相州広光は正宗の門人(弟子)とされるが、実子あるいは養子、又は正宗の師匠の新藤五国光の息子、正宗の養子である貞宗の子などと諸説がある。広光は、貞宗に次いで南北朝時代の相州に表れた名工で、秋広と比類される皆焼の刃文を得意とした斬新で華麗な作風の持ち主。
広光の作刀は殆どが無銘で有銘の太刀はただ一口のみである。彼の作品の多くが大柄の短刀や脇差であり、その刃文には丁子が目立って俗に団子丁子と云われる頭の丸い独特の丁子刃がみられる。また稀に、広光には直刃の作例もあり、これをもって相州正宗直系である証しとする識者もいる。
ちなみに広光唯一の在銘(銘 相模国住人左衛)の太刀は、越前藩福井松平家に伝来した左衛門尉広光、2尺4寸8分(約75.1cm)である。
伊達政宗が元和6年(1620年)に江戸城石垣修築の褒賞として徳川将軍家より拝領したもので、それ以前の来歴は不明。当時、政宗自身は仙台在国であった為、受け渡しは政宗嫡子で伊達家2代目当主の美作守忠宗が徳川秀忠から受領した。
貞享4年(1687年)卯月29日、本阿弥家に砥に出された際に刃長などが測られている。この時は「長2尺2寸2分5厘(約67.4cm)」とされ名物帳にもこの刃長で記載されているが、伊達家の記録ではすべて「長2尺2寸3分(約67.7cm)」となっている。将軍家から拝領した時には五十枚の小札がついていたが、安永7年(1778年)12月に百枚に格上となった。尚、江戸時代後期の仙台藩の儒学者、若林靖亭(若林友輔)によれば、政宗が常に帯びていたという。
伊達家の蔵刀目録には、寛政元年(1789年)に御刀奉行の佐藤東蔵が藩主の命により編纂した「剣槍秘録(けんそうひろく)」全四巻と、文化14年(1817年)3月に田中杢右衛門と村上栄助の両名が編纂した「御腰物方本帳」全六巻があるが、大倶利伽羅は剣槍秘録の一巻27番に記載されている。また剣槍秘録に所載されている刀剣類は、後に重要文化財に6口、重要美術品に大倶利伽羅を含む6口が指定されている。
大倶利伽羅の刀拵は大変見事なものであったとされ、目貫は後藤光乗作で代金六枚、笄/小柄は後藤宗乗作で三枚の折紙、共に延宝9年(1681年)3月7日付だった。剣槍秘録の記載内容によれば、附帯する拵は黒色塗鞘打刀拵。鞘は黒色塗りで小柄は倶利伽羅図、笄と目貫は桐鳳凰図である。鐔は赤銅地に金覆輪をしたもので柄は黒塗り鮫を着せ、白革を巻き、縁は赤銅魚子地。また下げ緒は紅色であったという。
この拵が製作されたのは少なくとも将軍家から拝領した元和6年(1620年)以降の江戸時代と考えられている。もしくは目貫や笄に折紙が発行された上述の延宝9年頃であった可能性があるとされている。
大倶利伽羅はその後代々にわたり仙台伊達家に受け継がれたが、明治17年(1884年)8月に仙台から東京に移される。以後、関東大震災でも被災を免れており、昭和4年(1929年)3月の日本名宝展覧会では伊達興宗伯爵の所持品として展示され、昭和9年(1934年)12月20日には重要美術品に指定。こうして昭和初期の頃までは伊達家が所有していたが、現在は大阪府茨木市の医療品の研究開発や製造に携わる私企業が所有している。
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