【国鉄昭和五大事故 -3】 洞爺丸事故 (中編) 〈1031JKI51〉

洞爺丸303 qa1503
洞爺丸台風の被害を報じた当時の朝日新聞紙面

【国鉄昭和五大事故 -3】(前編)に引き続き、『洞爺丸事故』の(中編)記事をお届けする。

今回は、事故調査と海難審判の経過、事故の原因と対策・措置などについてを扱うこととする。

 

原因の調査と裁判(海難審判)

大惨事の翌日(1954年9月27日)の夜には、運輸大臣や国鉄副総裁らが事故現場の函館に急行した。そして早速、函館地方海難審判理事所の理事官が、重大海難事故として事故原因の調査を開始した。尚、海難審判理事所とは通常の刑事裁判における検察の役割にあたる組織であり、理事官は検察官に相当する。

更に28日には国会の衆議院運輸委員会が、国鉄総裁(長崎惣之助氏)らに対して事故対策につき喚問を行った。また、近藤平市船長が死亡していた為、乗組員生存者の中では最高位に当たる二等航海士から事情聴取を実施した。

その二等航海士は、「午後2時50分出港予定だったが波が荒くて延期、5時半ごろ天気も良くなり始めた。『暴風雨警報』は出ていたが、12号台風では被害ながなかったので、これほどひどくなるとは思わなかった。6時40分出港、直後に32m/sぐらいの風にあい、港外に出るとすごいので引き返しかけた。防波堤外でアンカーを流したが、ツメがかからず、エンジン全開で風に対抗したが10時ごろ両エンジンが止り、激波にもまれ10時26分座礁、7、8分後横転した。救命具をつけていた客は瞬間的に海に飛び込んだ。台風に対する見通しが間違っていた。」との証言を行った。

 

同年10月1日、函館地方海難審判理事所の所長が調査の中間状況について、「調査の結果、荒天準備が不十分で、船長の過失のにおいが濃くなった」と発表した。また同じ頃に最高検察庁が、「平常の経験からこの程度では航行できると判断して出航したらしいので、業務上過失にはならない。また船長が死亡しているので問題にならない」との見解を出している。

11月27日には、函館地方海難審判理事所が函館地方海難審判庁(海難審判を行う組織で、通常の地方裁判所に相当するが現在は廃止されている)に洞爺丸を含む5隻の沈没事故について審理申立を実施した。

翌昭和30年(1955年)2月15日、函館地方海難審判庁で第一回の審理が開始され、受審人は沈没各船の所属乗組員9名(事故当時、非番であった者を含む)であった。

また、指定海難関係人は日本国有鉄道(旧国鉄)の総裁であった長崎惣之助氏や青函鉄道管理局の局長、そして中央気象台長と函館海洋気象台長が指名された。以降、乗客・乗組員の生存者、青函鉄道管理局の部課長、造船技師などを証人として審理が進められていく。

同年2月25日、東京大学の加藤弘教授らによる「洞爺丸等復元性鑑定書」が提出される。そこでは、機関室等への漏水によるエンジン停止の原因となった車両甲板への海水の浸入は、水槽実験により波高が6m、波周期 9秒の時に最大量となることが判明した。そしてこの値は、観測による推定値とほぼ同一であった。また、車両甲板上の滞水量は試算により250トン以下と推測され、復原力には影響を及ぼすものではない程度とされた。更に、七重浜での転覆は水槽による座州実験の結果、漂流中に右舷ビルジキールが漂砂に引っかかった為に船体が一点支持となり、そこへ大波が襲ったために転覆したと推定された。(事故原因として再度後述)

次のページへ》  

《広告》