明治時代以降、日本国民の全てが名字(苗字)を名乗るようになった。誰もが知っている通り、それ以前の時代では公家や武士、医師や学者、そして一部の豪農(庄屋・名主など)や有力な町人(町名主・年寄など)などに限って名字(苗字)を持つことが許されていた。
それが明治3年(1870年)9月19日の『平民苗字許可令』を経て、明治8年(1875年)2月13日の『平民苗字必称義務令』により、我国の国民は皆、公的に名字(苗字)を持つことになった。これは、明治維新を迎えて武士の世が終わりを告げ、文明開化と共に四民平等の世界が来たことの象徴の様に思えるが、しかしそこには意外な理由が存在していたのだった・・・。
江戸時代までは、武士階級などを除く多くの平民(農民・職人・商人などの庶民)は「何々屋(屋号)の誰それ」とか「何処の誰々」といったように、携わっている職業やその居住地の地名を名前の上につけて名字(苗字)の代わり(識別の為の呼称)としていた。
それが明治時代になると、前述の様に平民もすべて名字(苗字)を付けなくてはならないという法律が出来たが、この国民全員が名字(苗字)を付けるという決まり事は、身分制度の撤廃を優先した発想によるものではなかったのだ。
結論から言うと、国民全員が名字(苗字)を名乗ることになったのは、実は「徴兵制度(ちょうへいせいど)」との関係が強いとされているのだ。そしてこの制度とは、国家が国民に兵役に服する義務を課す制度のことで、「志願兵(募兵)制度」の対義語である。
国家が強力な常備軍を維持し、また一朝事ある時には速やかに戦力の拡大を要することを考慮して(国民皆兵のもとに)多くの兵員を集め、また一定期間にわたり兵役に服すことを可能とした体制を整備したのが「徴兵制度」である。但し、明治6年1月10日発布の法律では「一家ノ主人タル者」や家産・家業維持の任に当たる者は兵役の義務から免除されていた。
さてこの「徴兵制度」を確立する上では、何処に何と言う名前の者が住んでいるのかを正確に把握することが最も重要であった。兵士となる候補者を集める上では、江戸時代までの様な多くの庶民が適当で(いい加減な)呼び名で呼ばれていた状態では確実に「徴兵制度」を遂行することは能わなかったし、同様に何処に常住しているかを知る必要もあったのだ。
そこでこの「徴兵制度」をスムーズに遂行・達成する為に必要なものとされたのが、徴兵対象者を含む国民全ての年齢・性別や氏名と住所を記した「戸籍(こせき)」の整備であったが、この「戸籍」とは、「戸」と呼ばれる一定の家族集団単位で国民たちを登録・管理する目的で作成された公文書類のことである。
江戸時代までの徳川幕藩体制下では、人民把握の基礎となったものに「人別帳」等があったが、近親の家族以外にも遠縁の親類縁者や使用人なども含めた「家」単位で編纂されていた。
しかし明治時代になると、我国は中央集権的な国家体制の樹立を目指して、それ以前の時代の「家」間の主従関係や支配者側と被支配者側の立場の解消が企図されたのである。
そこで律令制の頃の「戸籍」に範をとった制度を復活させて、江戸時代までの「家」単位ではなく「戸」単位での国民に関する情報の掌握体制を確立して、それまでの「家」制度が封建体制下では公的なものであったのが、以降は私的な繋がりの集団・組織へと改変されて、国家は「家」を通さずに直接的に個別の国民を個人単位で管理することが可能となったのである。
こうして、明治期以降の「戸籍」は徴兵制や徴税の効率を上げる為に設けられ、戦前(第二次世界大戦終結以前)の新たな「家」制度の根幹となっていく。この制度は、1898年(明治31年)に制定された民法において規定された我国固有の家族制度であり、親族関係を有する者の内で更に狭い範囲の者を、「戸主(こしゅ)」とその家族として一つの「家」に所属させて、「戸主」に「家」の統率権限を与えた制度のことである。またこれは、江戸時代に発達した武士階級の「家父長制」を基にしていたと考えられている。
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