9月5日、理事官や受審人、そして指定海難関係人並びに海事補佐人による最終弁論が行われた。
9月22日、本件事故の内、洞爺丸については函館地方海難審判庁で裁決が出された。その主文には、「(本件事故は)船長の運航に関する職務上の過失に起因して発生したものであるが、船体構造及び連絡船の運航管理が適当でなかった事も一因である」とされ、指定海難関係人の十河信二氏(この時点での国鉄総裁)に対して勧告が為された。だが、同じ指定海難関係人の青函鉄道管理局長に対しては、「連絡船の船体構造及び運航管理の適当でないことにつき勧告すべきであるが、本件発生に鑑み、その対策について審議研究し、船体構造及び運航管理の改善を計っているので、同人に勧告の必要は認めない」とされた。
洞爺丸以外の十勝丸・日高丸・北見丸・第十一青函丸については、同昭和30年(1955年)12月21日に函館地方海難審判庁から裁決が言い渡された。十勝丸と日高丸、北見丸については洞爺丸と同様の裁決結果となったが、第十一青函丸については乗組員が全員死亡の為、原因は不明とされた。 しかしこれを不服として、理事官側及び旧国鉄側の双方から二審請求が提出される。
翌昭和31年(1956年)4月6日から高等海難審判庁での第二審が開始される。その後の昭和32年(1957年)1月22日、この日の審理で気象庁から発表された「昭和二十九年台風十五号報告」に対する説明が行なわれ、旧国鉄側からの質疑も行なわれた。
昭和34年(1959年)2月9日に高等海難審判庁で第二審の裁決が下された。その結果は、ほぼ一審裁決を踏襲した内容であったが、旧国鉄に対しては既に改善措置がとられているとして勧告は行われなかった。
その後、日本国有鉄道(旧国鉄)は高等海難審判庁による第二審の裁決内容を不服として、同裁決の取消しを求めて東京高等裁判所に提訴したが、同高裁は昭和35年(1960年)8月3日に「海難審判の裁決は意見の発表に過ぎず、行政処分ではない」として訴えを却下する。そこで更に旧国鉄は、同月(8月)15日には最高裁判所に上告したものの、翌年の昭和36年(1961年)4月20日に上告棄却の裁決が確定した。
ところで、本件審判の進行中から、死亡した近藤平市船長に関してその弁明の機会が与えられないままに一方的に断罪されることについて、関係者・識者から多くの疑問が呈された。
そしてこれらの意見を踏まえて、以後、海難審判庁では海難審判制度改革の議論の一環として、「海難事故などで船長が殉職した場合、一言の弁明の機会もないまま裁決文に『職務上の過失』と明記されるのはいかがなものか」との判断が出され、その後、船長が殉職した海難事故では裁決理由の中に船長の個人名が出たとしても、『船長の職務上の過失』の語句は使用しないと申し合わされることとなった。
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