【国鉄昭和五大事故 -3】 洞爺丸事故 (中編) 〈1031JKI51〉

事故の原因

幾つもの不運が重なり、最後の航海に向けて出港してしまった洞爺丸だが、果たして事故の原因は何だったのだろうか? 以下に多くの専門家から指摘されている、事故の原因と考えられている問題点や事象を上げていこう。

 

〈 気象観測技術の未熟さや予測態勢の不備 〉

(前編)で示した様に、当時の気象観測技術は現在の観測レベルには程遠く、台風の位置、強さ、速度、方向などに関する情報の把握は現在に比べてはるかに大雑把であり、未だ気象衛星やコンピューターなどを活用しての台風観測は始まっていない上に、北海道の日本海側の海上(気象)レーダーは未整備であった。つまりレーダーでの観測データもなく、気圧と風向き(及び経験値)だけで台風の進路と速度を推定していたのである。

更に、洞爺丸を襲った台風の速度は時速 110kmと異常に早かった為、当時としてはこの台風の情報を確実に伝えることが一層困難となっていた。更に事故の際に、函館港付近では一部の地域で「台風の目」が通過したかと思わせる様な気象状況が一時的に発生したが、現実には函館の西方海上において急激に減速しながら発達してより強風が増し、気象台の予測以上の風雨をもたらしたことで更に被害が拡大したとされる。

また函館港においては、防波堤を挟んで港内と港外で風速や波浪などの状況が大きく異なっていた。そして日本海側からの波が直接的に函館湾へと押し寄せるだけではなく、強力な突風が南側開口部の湾入口側から吹き込んで来ていた。

事故直前の丁度その頃、この台風は函館西方100キロの日本海海上にあり、函館港はまさに台風の最も危険域内にあったが、当時の気象情報や函館港周辺での現況からそれを推測することは困難であった。

 

〈 台風位置の予想を誤る 〉

洞爺丸の近藤平市船長は、青函連絡船の船長としてはベテラン組であり、気象判断のエキスパートで『天気図』と綽名(あだ名)される程の人物であったという。

その彼が、ラジオの気象情報と船の気圧計の数値、そして付近の風向きなどを考慮しながら、前例のない異常な台風の動向や函館港附近の気象状況下で、経験上から「台風は既に通過しており、今後は大幅に弱まってくるはずだ」との誤った判断をしたものと推定される。

つまりこの大事故の主因の一つは、洞爺丸の船長が(同台風襲来前に出港した根拠である)台風の位置を誤って予想した点に尽きると考えられるのだが、では何がその誤判断を惹起したのか?

前述の様に当時の気象関連システムでは、現在の様に台風の位置や形状をリアルタイムで観測出来ていなかった為、また気象通報のシステムも非常にアナログであり、船長は与えられた情報を基に作成した天気図から台風位置などを自ら想定し判断を下していたが、船長の見ている天気図は実際(リアルタイム)とはかなり時間的にかけ離れた天気図であったと考えられるのだ。その時間差故に気象状況が実態と大幅に異なっていれば、当時としては最大限に合理的な台風位置の予想と謂えども、それが間違っている事は当然有り得たのだった。

既に、西日本地域で死者行方不明者300名の被害をもたらしていた台風15号は、その後も時速110kmで北上しており、函館海洋気象台では津軽海峡に接近するのは17時頃と予想していた。その点だけから判断すれば、当初、近藤船長が定めた函館出港予定時刻の14時40分は合理的判断と考えられる。

その後、この台風の急速な進行と突然の減速を認識出来なかったことに加えて、17時過ぎの(一時的な)函館港附近の無風・曇天の状況と気圧の変動から、近藤船長は「台風の目」が通過したと考えたのだろう。そして「台風の目」が東方側に去ったのだから、今度は風向きが陸から吹く風に変わり、また風力も弱まり航海に支障がなくなるはずであるとの船長の判断のもとに、18時39分に洞爺丸は函館港を出航したのであった。

実際にも、目的地の青森地方の天候は比較的穏やかであったとされる。だが、函館港の中では南南西の秒速10m程の弱い風であったのが、函館港防波堤の外側では秒速20mを超える突風が吹いていたのだった。

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