〈 安全運航義務を軽んじた船長の判断ミス 〉
台風は、氷山などの浮遊等と共に航海に直接危険を及ぼすものとして、これらに遭遇した場合は航海に重大な危険が予想されることから、船長は船舶及び人命の安全につき特段の注意を要すると海事に関する条約や法律でも定められている。
当該の台風第15号(「洞爺丸台風」)について、相当の危険な状況で函館地方に来襲する可能性を気象台が注意喚起しており、船舶の運航に危険となると予想して定時出航を見合わせて港で待機している状況下で、船長は本来は船舶及び人命の安全について特段の注意を払い、台風による危険が過ぎ去ってから通常通りに出航すべきであったとする見方がある。
洞爺丸の出港時、函館港附近においてこの台風が確実に通過し去ったとは認められない状態で、船長が多数の旅客と車両を搭載して青森向けに出航したことは、船長の運航に関する職務上の過失に基因して発生したとものであると、同事故の海難審判でも指摘されている。
また更に犠牲者が増加したのは、船長並びに幹部乗組員が最悪の事態を想定出来ずに、乗客の避難誘導が遅れたことも影響しているとされている。
しかし、この台風により同夜の函館湾では洞爺丸以外にも4隻の船舶が沈没していたのだった。即ち、洞爺丸とその船長だけが犯した判断ミスではないとも考えられるのだ・・・。
〈 連絡船の運航責任 〉
ところで船長には、航海の成就に関しての義務・責任もある。船長は「航海の準備が終ったときは、遅滞なく発航し、かつ、必要がある場合を除いて、予定の航路を変更しないで到達港まで航行しなければならない(船員法9条)」とも規定されているのだ。
そして更に、当時、本州と北海道を結ぶ主要交通手段は青函航路のみであり、特に一般船客を運ぶ青函連絡船には大変重要な運行責任があった。その輸送要請は極めて強く、一定のダイヤによって運航され、多少なりとも航海の危険が予想される荒天の場合でも、他の一般船舶の様に早期には避難や航行の中止をせずに、航海が可能な限りは運航を継続していたという経緯があった。
各船長達ちには、簡単には欠航出来ないとのプレッシャーが重く圧し掛かっていたことは間違いなく、これが運行の可否決定に関して全権限を有していた船長の判断に、多大の影響を与えたと考えられるのだ。
〈 錨泊への過度の期待 〉
事故の直前、洞爺丸は函館港の防波堤を出航してから直ちに、秒速40mを超える強風と激しい大波に直面した。そこで近藤船長はその後の航海を継続出来る状態ではないと判断し、強風と高浪への対抗措置としては(この頃の青函連絡船では)常識的であった、投錨しながら機関を微速前進の形で風上に向って船首を向けて維持する操船方法(投錨仮泊法)を実施した。
当時は、強風と高波を避ける為に錨泊すれば船首は風上を向いて横波を受けて横転する危険は抑えられ、更に走錨しない様に両舷の主機械を運転して船位を維持すれば風下側の船尾開口部から車両甲板上に海水が大量に浸入することはない、とそれまでの経験上から連絡船関係者の多くが考えていたのだ。
しかし、通常の強風程度ならば充分に有効とされるこの方法であったが、この時の様な極めて強い波浪に直面した場合には効果は薄いとされ、反対に問題が生じることもあり得た。それは錨を通じて船首部が海底に固縛されることで、微速前進によりかえって強風と高浪により錨を中心点として船体が大きく左右(もしくは前後)に揺さぶられる事になり、この時、錨綱が極限までに引っ張られて張力の限界を超えるに際して破壊的な力を受け、船体に耐久強度を超えた歪み力が加えられた可能性は高い。
しかも当夜の函館湾の高波は、波高が6m、波周期は9秒、波長は約120mであり、洞爺丸の水線長 115.5mよりわずかに長かったが、この場合、車輌甲板へ流入する海水の量が極度に増大し、しかも排水され難くなることが事故後の調査で判明している。
要するに、前方から来た波に船首が高く持ち上げられた際に波に沈んだ船尾側はその前に通り過ぎた波の斜面に深く落ち込み、その場合に海水が車両甲板船尾から車両甲板へと流入し、今度は船尾が波に乗って起き上がると、一旦流入していた海水は船首方向へと激しく移動し、次に船尾が下がった時にもこの海水は更に船尾から流入する海水とぶつかり合って排水されずに、こうしてやがては車両甲板上に多くの海水が溜まってしまうことが事故後の模型実験で明らかになった。また波周期が9秒である場合が、車両甲板への海水流入量が最も大きくなることも判明したのだった。(「洞爺丸等復元性鑑定書」より)
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