【国鉄昭和五大事故 -3】 洞爺丸事故 (中編) 〈1031JKI51〉

〈 船体構造の欠陥 〉

洞爺丸は、鉄道車両などの輸送の為の連絡船特有の構造により船尾に車両積載用の大開口部を有していたが、ここには遮浪の装置・設備が無く、また車両甲板には階下の機関室並びにボイラー室等に通ずる多数の、縁材が低くまた完全防水が為されていない通気孔などの諸開口部が存在し、そこを通じて高浪による船尾からの海水の浸入が下層の機関室などへと向かい、その後のボイラー室の浸水へと繋がることで機関出力が低下または停止という事態を招いたのだ。

洞爺丸の場合、船尾開口部から大量の海水が浸入しても、その水量は250トンから360トンとされており、この程度の量ではその重みで転覆する危険性はないとされていた。しかし上記の通り機関が停止したことで操船が不能となり、走錨も避けられず船首を風上に向けることが出来なくなり、横波を受けて転覆へと繋がった。この様に、洞爺丸の船体構造の不備が悪天候を乗り切るのに適当でなかったことは、重大事故発生の一因と考えて間違いない。

 

〈 車輌を満載 〉

この時、遭難した5隻の連絡船は車輌等を積載していて、遭難を免れた船は空船だったとされる。つまり車輌を満載していたことによって船体の重心が高くなっていたことに加えて、車輌甲板に海水が侵入し始めた際に車輌甲板において開口していた機関室やボイラー室への換気口などを閉鎖しようとしたが、積載していた車輌らがこの作業を妨げてこれらの開口部の閉鎖が円滑に行えず、機関室等への浸水を防げなかったことも沈没の遠因とされているのだ。

 

これらの事象が複合して遂には操船が出来ない状況となり、追い打ちをかける様に強風と高浪により船体が傾斜して最後には復元困難となってしまった。

 

〈 座礁場所と状況 〉

誠に残念なことに、本来は洞爺丸が座礁した場所の海図上での水深は12.4mほどあり、喫水が4.9mの洞爺丸が座礁するはずがないところであったが、台風の強い大波で掻き回された海底の砂が堆積して急遽、浅瀬状になった場所であったとの説がある。

この砂地に、右舷船底の揺れ止めの鋼鉄製のヒレであるビルジキールが引っ掛かり、そこへ左舷からの大波を受けて洞爺丸は右舷側へと転覆し、やがてこの浅瀬から陸側の海底の深み部分に転がり落ち、その角度は 135度とほとんど逆様の状態となって沈没したと推測されている。

 

〈 青函連絡船の管理体制についての問題点 〉

最後に、青函連絡船の管理部門である青函鉄道管理局(及び旧国鉄本社)は、本航路の重要性や、特殊な構造の船舶(鉄道車両を積載する旅客船)を使用していることなどを知りながら、連絡船航行の実態の把握に欠け、その特殊な事情に応じた安全運航に必要な措置をとることに関する努力が欠如していたと思われる。

その為に、当時の青函連絡船にみられた船尾開口部の海水浸入に対する防備が為されていないという問題点や、また車両甲板の開口部の多さなどの船体構造の安全性の欠陥に関して、青函航路の運航の実情から不適切であるとの認識が出来ずにいたのである。

また当該連絡船の安全運航に関する責任は全て各連絡船の船長にあるとし、管理部門は(自ら、もしくはその上位組織を含めて)これに直接関与すべきでないと考えていた為、安全運航に必要な人員配慮や対策を講ずる為の権限を持たず、また大事故や自然災害の発生に対する非常時の職員の勤務態勢並びに各種の職務権限についての規定なども、まったく事前には定められていなかったという。

そこでこの事故の発生当時、青函鉄道管理局では何等の非常体制を敷くこともなく、幹部職員を含めた関係職員の一人として出航を目前にした洞爺丸の船長とは何らの協議も行わず、当然ながら特別な支援体制は皆無であった。

それどころか当直の輸送指令は、出航した洞爺丸が台風の荒天下に主機関及び発電機が止まりつつある旨の報告を受けながら、それが既に重大な事故の発生であることを理解出来なかった為に直ちに上司への報告も行わず、更に呆れた事には、生還した洞爺丸事故の生存者の通報によって初めて状況の重大さを知り、ようやく遭難者救援の措置・対応を実施するに至ったとされている。

こうして当時の運航状況を鑑みると、同航路の運航管理や支援体制には大きな不備があり、その管理方針も不適切なものと考えられた。更には、その状況対応の稚拙さが洞爺丸他の海難事故を発生させた一因であり、旧国鉄の危機管理能力の欠如はまさしく痛恨の極みと云えよう。

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