事故の対策
この未曾有の事故を受けて運輸省は、1954年(昭和29年)10月に学識経験者による「造船技術審議会・船舶安全部会・連絡船臨時分科会」を発足、また旧国鉄の総裁は同年11月に、同じく学識経験者らによる「青函連絡船設計委員会」を設置した。
これらの組織・会合において、洞爺丸を含む5隻の青函連絡船の喪失原因とその事故対策等が審議された結果、以下の様な内容の事故対策の答申書が提出された。
(1)青函連絡船の運行についての判断業務を、各連絡船の船長への全権委任から船長と地上運行局(青函局指令)との合議制へと転換した。また荒天時には気象台との連絡を緊密にすると共に、台風や低気圧通過時の退避先は、強い波浪が寄せる可能性の高い函館地区ではなく、陸奥湾の奥で波浪の影響を受けにくい青森地区とした。更に、事前に取り決めた一定の気象条件を超えた場合には、直ちに地上の鉄道線を含めた路線全体の運行を停止させる制度を採用した。
(2)連絡船の船体等に以下の様な改修・改善工事を実施した。
a.連絡船の水密構造の強化・・・この事故以後の連絡船は、防水を徹底させる為に車両積載用の大開口部に防水扉を設置することになった。また生き残った洞爺丸型の3隻に関しては、下部遊歩甲板の旅客室の角窓を水密性に優れた丸窓に変更、車両甲板と機関室の間の開口部の全廃、更に機関室などの水密措置もより強化されて機関類が容易に無力化されない様な対策が施された。急遽補充の為に建造した新造船だけでなく、沈没を免れた在来船や浮揚後に修復された復元船においても同様の対策が行われ、以前にも増して安全性に重点が置かれた。
b.船体の復原性の向上・・・客載車両渡船の第十二青函丸と石狩丸の車両甲板上にある旅客室を廃止・撤去して重心を低下させたり、他の連絡船でも大幅に凌波性・復元性の向上に努め、車両甲板上に大量の海水が浸入するような悪条件下でも復原性が確保される様に改修・改善工事が行われた。
c.石炭炊きのタービン機関からディーゼル・エンジン化へ・・・石炭積卸用の開口部を閉鎖する目的で、主機関についてのディーゼル・エンジンの採用による燃料の重油化が図られた。また機関そのものの変更が難しい場合には、重油燃焼装置や自動給炭機を設置した。
(3)連絡船に替わる青函間の総合運輸システムとして、運行の安定度と安全性が高いトンネルによる鉄道路線の(青函トンネル)建設計画の企画を開始した。
各種対策や措置を施すことで、その後は1988年3月13日の終航まで青函連絡船で二度とこの様な大惨事が起きることはなかった・・・。
さて、いよいよ次回は最終回(後編)として、洞爺丸以外の事故の状況や事故関係者の消息、そしてその後に判明した多くの関連逸話について紹介する予定だ。
-終-
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【国鉄昭和五大事故 -2】 三河島事故・・・はこちらから
【国鉄昭和五大事故 -3】 洞爺丸事故 (前編)・・・はこちらから
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