以降、いまだにガダルカナル島奪還を諦めていなかった日本軍は、10月3日と8日の夜、陸軍第二師団司令部や第17軍直轄部隊の一部などが水上機母艦『日進』や軽巡『龍田』により、11日夜半には再び『日進』や同『千歳』が重砲部隊をガ島に揚陸することに成功した。
同時期、日本海軍は飛行場の機能を停止させるため、ラバウル航空隊の空襲と並行して戦艦や重巡洋艦の主砲によるヘンダーソン飛行場・基地に対する艦砲射撃を計画する。
まず10月11日夜には五藤少将指揮の第一次挺身攻撃隊(第六戦隊基幹、『青葉』、『古鷹』、『衣笠』、駆逐艦『吹雪』、『初雪』)がガ島砲撃を実行するが、ノーマン・スコット少将指揮下の第64任務部隊(重巡2隻・軽巡2隻・駆逐艦5隻)に(レーダー活用で先手を取られて)迎撃され五藤少将は戦死、『古鷹』、『吹雪』が沈没し、旗艦『青葉』も大破して作戦は失敗した。米軍側は駆逐艦『ダンカン』が見方からの誤射で沈没。これを「サボ島沖海戦」と称する。尚、この時、指揮官の五藤少将は、当初の『青葉』への砲撃は味方からの誤射だと亡くなるまで信じていたと云われる。
次に第二次挺身攻撃隊(指揮官は栗田健男少将で戦艦『金剛』、『榛名』に第二水雷戦隊の各艦)が、10月13日夜半にヘンダーソン飛行場への砲撃を実施した。尚、この時『金剛』は36センチ主砲435発、『榛名』は同じく483発を発射(焼夷弾子を含む「(仮)三式通常弾」104発を含む)して飛行場付近2,200平方メートルが火の海となり、これにより一時的に飛行場は使用不能となった。
またその翌日以降(10月14日~15日)、第八艦隊も旗艦『鳥海』がサボ島沖海戦から生還した『衣笠』と駆逐艦『天霧』に『望月』を率いて、ショートランド泊地からヘンダーソン飛行場・基地砲撃に向けて出撃した。
同部隊は輸送船団を護衛しつつガダルカナル島へ接近。14日の深夜、『鳥海』と『衣笠』はヘンダーソン飛行場に対し主砲弾752発を発射した。またこの時、三水戦基幹の軽巡『川内』、『由良』、『龍田』と駆逐艦『朝雲』、『白雪』、『暁』、『雷』の増援部隊輸送隊(但し軽巡は2隻との説もあり)が、陸兵1,100名をガ島のエスペランス岬に揚陸した。
しかし第四水雷戦隊(旗艦『秋月』、『村雨』、『五月雨』、『夕立』、『春雨』、『時雨』、『白露』、『有明』、『夕暮』)が護衛していた追加のガ島攻略部隊である陸軍歩兵第二師団の主力を運んだ輸送船団6隻は、15日の朝(08時45分頃)までには兵員や重火器の全部と、弾薬や食料の80%を揚陸したが、その後の空襲により3隻の輸送船(『吾妻山丸』、『笹子丸』、『九州丸』)が炎上(内1隻は擱座)してしまう。翌15日夜には、重巡『妙高』・『摩耶』と二水戦がガ島泊地に突入、ヘンダーソン飛行場を砲撃し、『摩耶』の水偵によれば大火災を観測したとされる。
ところが輸送船団から揚陸した物資の大部分は、16日朝の再度の空襲や敵駆逐艦の艦砲射撃で焼失してしまうという運命に見舞われた。度重なる艦砲射撃にも関わらず、米軍のガ島周辺の航空兵力は相変わらず強力であったのだ。
しかし、17日夜(22時頃)には日本海軍も執拗に軽巡3隻(『川内』、『由良』、『龍田』)、駆逐艦15隻の大部隊で増援部隊兵員の「鼠輸送」((駆逐艦乗りたちは「マル通」と呼んだが、輸送船ではなく駆逐艦を使用した輸送任務のことを前線の日本部隊が揶揄して名付けた呼称で、米側では「東京急行(Tokyo Express)」と称した)を実施し、在ガ島陸軍第17軍(歩兵第二師団基幹)の総攻撃計画を支援した。各艦は陸軍兵員を2,159名、砲18門及び軍需物資多数の揚陸に成功する。
こうして態勢を整えたガダルカナル島の日本陸軍歩兵第二師団主力は、10月24日から25日にかけて米軍に対して総攻撃を行ったが、豪雨の影響や各部隊間の連携の杜撰さも手伝い、26日朝には攻撃を中止、日本軍の総攻撃は失敗に終わった。
10月24日、外南洋部隊(第八艦隊や増援の第三水雷戦隊など)は上記陸軍のガダルカナル島総攻撃に呼応して第三水雷戦隊基幹の第一攻撃隊(軽巡『川内』と駆逐艦6隻)と第四水雷戦隊(高間完少将指揮、旗艦『秋月』)基幹の第二攻撃隊(軽巡『由良』と『秋月』を含む駆逐艦5隻)を編成しガ島へ出撃するが、『由良』(艦長、佐藤四郎大佐)は25日に米軍機の波状攻撃を受けて航行不能となり、沈没(自沈処分)する。
この『由良』は太平洋戦争における日本海軍軽巡洋艦の喪失第1号となったが、『鳥海』にとっても長年行動を共にしてきた戦友であったと云えよう。
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