残存の挺身艦隊の再編が急がれる頃、日本軍は再びヘンダーソン飛行場の砲撃を計画し、連合艦隊司令部の命令で11月13日05時40分、第七戦隊司令官の西村祥治少将(レイテ沖海戦のスリガオ海峡夜戦で戦死、最終階級は中将)率いる西村部隊(「カ号作戦」/「
第七戦隊(重巡『鈴谷』、『摩耶』)は13日夜の22時頃(翌14日02時頃との史料あり)、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場の砲撃に成功する。消耗主砲弾数は『鈴谷』の主砲504発、『摩耶』485発であったが、実際の戦果は駐機中の航空機の一部破壊であり、飛行場の機能はすぐに回復した。
翌14日の朝方、『鳥海』、『衣笠』、軽巡『五十鈴』で編成される第八艦隊主隊と西村部隊はニュージョージア島南方で合流(06時頃)し、北上して退避行動に移ったが、その後、米軍機の攻撃を受けて、06時30分頃から06時38分にかけて『衣笠』に爆弾と魚雷が命中(右舷3本、左舷に1本命中との記録あり)、火災が発生して速力が低下。更に07時26分、『摩耶』には被弾したSBD爆撃機が体当たりし、魚雷発射管付近で火災が発生している。
この攻撃は米空母『エンタープライズ』とヘンダーソン基地航空隊の双方から発進したSBDドーントレス急降下爆撃機の部隊だったが、『鳥海』は艦首近くと艦橋右舷への至近弾により若干の損傷を受け、速力は29ノットに低下しながらも、何とか生き延びる。
しかし結局、僚艦の『衣笠』が沈められ、『摩耶』と軽巡『五十鈴』が中破する被害を受けてしまった。『衣笠』は駆逐艦『巻雲』と『風雲』に見守られて09時20分に転覆して沈没、『五十鈴』も至近弾(直撃弾とも)を受けて第2・3罐室が満水となり、駆逐艦『朝潮』の護衛でショートランドへ向かった。
また、挺身艦隊の砲撃失敗を受けて一旦ショートランド泊地に退避した第三十八師団主力を運ぶ船団だが、あくまでもガ島奪還を期する日本軍の意志は固く、14時から15時30分にかけて再び出港した。
しかしラッセル島北西の海域で、この船団は米軍機の執拗な空襲を受け、輸送船11隻中6隻(『かんべら丸』、『長良丸』、『ぶりすべん丸』、『信濃川丸』、『ありぞな丸』、『那古丸』)が沈没、『佐渡丸』は被雷して駆逐艦『天霧』、『望月』に護衛されてショートランド泊地へと帰還したが、残存の船団はガ島に向けて進んだ。
14日夜の「第三次ソロモン海戦・第二夜戦」では、近藤信竹中将指揮の日本艦隊(戦艦『霧島』と第四戦隊の重巡『愛宕』、『高雄』、第十戦隊や第三水雷戦隊の軽巡『長良』と『川内』並びに駆逐艦9隻)とウィリス・A・リー少将の第64任務部隊(戦艦『ワシントン』と『サウスダコタ』の2隻、駆逐艦『ウォーク』、『ベンハム』、『プレストン』、『グウィン』の4隻)が激突した。(以下、概略のみ解説)
日本軍は駆逐艦『綾波』が奮戦後に沈没するが、米軍第64任務部隊は戦闘序盤に4隻の駆逐艦全てが戦闘不能(内3隻沈没)となった。また第64任務部隊主力の新鋭戦艦『ワシントン』と『サウスダコタ』であったが、先ず第三水雷戦隊の『川内』、『浦波』、『敷波』が『サウスダコタ』を砲撃して停電を発生させた。続いて『愛宕』、『高雄』、並びに前日に姉妹艦を失った戦艦『霧島』が、米軍の両戦艦と交戦した。
先に集中攻撃を受けた『サウスダコタ』は大破して戦場を離脱したが、その後は逆に『霧島』が『ワシントン』の40cm主砲の猛砲撃を受けて被弾、『愛宕』、『高雄』に追随出来ずに落伍し、翌15日未明に沈没する。ここに日本海軍は立て続けに2隻の戦艦を喪失した。
そして15日02時頃、日本軍輸送船団の生き残り輸送船4隻はガダルカナル島タサファロンガの海岸に乗り上げた。船団護送の指揮官である第二水雷戦隊司令官の田中少将は、両軍混戦のさなかに残存する輸送船を揚陸地点の浅瀬に座礁させるという強硬策をとったのだ。しかし夜明け後に米軍の空襲や陸上からの砲撃で輸送船は全て炎上した。結局、第三十八師団輸送船団は、約2,000人の将兵と260箱の弾薬、並びに1,600の米袋をガダルカナル島に送り届けたのみで壊滅してしまう。
こうして、大乱戦の末に米軍はガダルカナル島の防衛に成功した。日本海軍はこの海戦以降、大掛かりな輸送船団によるガ島への増援と補給を諦める。
またこの海戦では、「第一次ソロモン海戦・夜戦」での探照灯による照射砲撃が持つ危険性(照射艦が敵艦隊から集中砲撃を浴びること)が戦訓として活かされていなかった。更に、太平洋戦争の緒戦より問題となっていた九三式魚雷(通称「酸素魚雷」)に関するトラブルが未解決のままであり、この海戦でも自爆(早爆)が多発した。そして、これが海戦の結末に大きな影響を与えること(魚雷の信管感度調整に問題が無ければ、『ワシントン』を撃破出来た可能性もあるし、『サウスダコタ』を取り逃がすことも無かったかも知れない)になった。
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