さて「第三次ソロモン海戦」の後、第二水雷戦隊(旗艦『長波』)の駆逐艦8隻で構成される鼠輸送部隊(この時は所謂「ドラム缶輸送」を実施)と、カールトン・ライト少将率いる米海軍第67任務部隊(ライト部隊)との間で戦われた「ルンガ沖夜戦」(11月30日)には、『鳥海』は関与していない。
結果は、駆逐艦『高波』が沈没した日本側に引換え、重巡『ノーザンプトン』を喪失し重巡『ミネアポリス』、『ペンサコラ』、『ニューオリンズ』が大破した米軍側の敗戦であり、この戦いは戦術的には日本軍の一方的勝利であったと評価されよう。事実上の被害担任艦となった『高波』の奮闘と、ここでは九三式魚雷の性能に拠るところが大きい。
ちなみに、この海戦での田中頼三少将に対する評価は日米両軍で相反するものであった。結果重視の米軍側では田中少将の指揮を絶賛しているが、日本軍側は田中に対して、消極的な戦闘指揮と本来の目的であった輸送作戦を放棄した点に関して大いに批判的であった。そして田中少将はこの後(12月29日附)、第二水雷戦隊司令官の職を解かれる。
その後も日本軍は駆逐艦等による物資輸送を続けたが、新鋭の駆逐艦『照月』を失い、また潜水艦による輸送(「モグラ輸送」)も実施されたが、これも被害が多い割には成果が上がらなかった。
この様に戦況が更に悪化していく中で、同年12月31日には、遂に御前会議において日本軍のガダルカナル島からの撤退が決定され、翌昭和18年(1943年)1月4日、陸海軍共に正式な命令(大陸令/大海令)が発令されガ島からの完全撤収の実施が伝達された。
実際の撤退作戦(「ケ号作戦」)は2月1日から7日にかけて実行されたが、作戦の意図を隠蔽する為に航空攻撃や物資輸送は継続された。その為、米軍は日本軍の撤退作戦完了後までその撤収の事実を知らずにいたという。
日本軍のガダルカナル島からの完全撤退後、『鳥海』は第八艦隊の旗艦任務を解かれて昭和18年(1943年)2月15日にトラック泊地を出港、2月20日に横須賀へ帰港し入渠する。その際に機銃を増設され、21号対空電探と22号対水上電探を設置されている。
同年4月4日、『鳥海』は4隻の駆逐艦、『漣』、『響』、『黒潮』、『親潮』と共にラバウルを目指した陸軍の第十四飛行団を輸送する空母『大鷹』と『冲鷹』を護衛して横須賀を出港した。
4月8日夜、待ち伏せていた米潜『タニー』が『大鷹』、『冲鷹』に対し計10本の魚雷を発射するが、すべて早爆だったため両艦の被害は僅少だった。この時、『タニー』は重巡の鳥海を空母と間違えて「日本空母3隻を発見、襲撃」と報告している。
間もなく艦隊は無事にトラック泊地に到着した。またこの頃、第八艦隊司令長官は三川中将から鮫島具重中将に代わっている。
5月17日、『鳥海』は前進部隊に編入されたが、 6月30日には米軍がニュージョージア島ムンダ飛行場対岸のレンドバ島に上陸して同島を占領、「ニュージョージア島の戦い」が始まった。このニュージョージア島侵攻はガダルカナル島の防衛に成功した米南太平洋方面軍(司令官、ウィリアム・ハルゼー海軍大将、最終階級は元帥)が、ソロモン諸島沿いにラバウルに向けて反攻を実施する端緒となる大規模な作戦であった。
対する我が方、南東方面艦隊(司令長官、草鹿任一中将)は、当時、ラバウルに同艦隊麾下の第十一航空艦隊と第八艦隊の司令部が置かれており、同港には軽巡『夕張』の他に、駆逐艦『新月』、『秋風』、『望月』、『皐月』、『夕凪』などが停泊していた。またトラック泊地には『鳥海』以外に、駆逐艦『雪風』、『涼風』、『江風』、『谷風』、『浜風』が、ブカには『天霧』、『初雪』、ブインに駆逐艦『長月』、『水無月』、『三日月』らが分散している、という状況であった。
そして『鳥海』、駆逐艦『谷風』、『雪風』、『涼風』、『江風』(機関故障でトラックへ帰投)らはラバウルへの進出を命じられ、同地に到着後は南東方面艦隊の指揮下に入るようにと指示された。
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