【太平洋戦争】 優駿 日本海軍 巡洋艦物語!! 第1回 重巡洋艦 『鳥海』 -後編-  〈3JKI00〉

『鳥海』は8月5日、ラバウル停泊中の外南洋部隊主隊から支援隊に編入された。10日にはラバウルを出港し、トラック泊地へと回航されたが、その後、12日になって『鳥海』は、『熊野』や空母『雲鷹』、駆逐艦『野分』、『白露』らと共に帰国の途に就いた。

横須賀で損傷修理後の20日(書類上は21日附)には外南洋部隊支援部隊/第八艦隊から第二艦隊の第四戦隊に再び転出となる。そして9月には機銃、電探の増備を行い、三度、南太平洋方面へと進出することになった。

1943年(昭和18年)11月上旬、『鳥海』は「ろ号作戦」に呼応した「ブーゲンビル島上陸作戦」を支援する為、第二艦隊司令長官の栗田健男中将が指揮する第二艦隊(旗艦『愛宕』、『高雄』、『摩耶』、『鈴谷』、『最上』、『筑摩』、軽巡洋艦『能代』、駆逐艦4隻(『玉波』、『涼波』、『藤波』、『早波』)と共にラバウルへ進出する事になった。

11月3日トラック泊地を出撃したが、カビエン北方80浬で『日章丸』(戦前最優秀と謳われた出光興産の油槽船)が空襲により航行不能となった為、『鳥海』と駆逐艦『涼波』が同船救援に向かうことになり、栗田艦隊から分派された。

11月5日、第四戦隊を含む第二艦隊は進出先のラバウルで米機動部隊艦載機の大規模な空襲(「ラバウル空襲」)に遭遇する。同空襲時に『鳥海』は上記の救援任務によりラバウルを離れておりこの空襲を免れたが、『最上』、『筑摩』、『能代』、『阿賀野』、『藤波』、『若月』他が大小の損害を受け、また他の『高雄』型各艦が全て損傷する(特に『摩耶』の被害甚大)などの状況から、11月7日には『鳥海』は『涼波』などの駆逐艦と同様にトラック泊地へと後退した。

 

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昭和19年6月頃の撮影とされる『鳥海』

昭和19年(1944年)1月20日早朝、給糧艦『伊良湖』は、駆逐艦『皐月』と共に内地へ向けトラック泊地を出発するが、米潜『シードラゴン』の雷撃でトラック北方海域において損害を受けた。そこで『鳥海』は駆逐艦『涼風』、『潮』と共に被雷現場へ急行、立ち往生していた『伊良湖』を救援して21日にはトラック泊地へと戻った。

その後、『鳥海』は6月には第二艦隊第四戦隊(第二艦隊司令長官の栗田中将直率)の一艦としてマリアナ沖海戦に参加するが、この海戦は主力の正規大型空母の『大鳳』と『翔鶴』、そして商船改造空母『飛鷹』を失った日本側の惨敗に終わる。そして10月には、いよいよ運命のレイテ沖海戦を迎えるのだった。

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