『鳥海』の最後
昭和19年(1944年)10月22日、「捷一号作戦」に参加した『鳥海』(艦長、田中穣大佐)は、ボルネオのブルネイ湾を出撃した栗田艦隊(第二艦隊司令長官の栗田健男中将直率の『高雄』型重巡4隻で編成した第四戦隊)に所属して北上を開始。10月23日早朝に艦隊がパラワン水道を通過中に米潜水艦『ダーター』の待ち伏せ攻撃を受け、艦隊旗艦の『愛宕』が沈没、『高雄』は大破(彼女は駆逐艦『長波』・『朝霜』に護衛されて何とかブルネイまで帰投し、同地で終戦を迎える)。更に、直後にもう一隻の米潜『デイス』により『摩耶』も撃沈される。
しかしこの時、『鳥海』は『高雄』型の中で唯一被害を受けなかった。そこで『鳥海』は第五戦隊(司令官橋本信太郎少将)の指揮下に移行、翌24日には米軍航空機部隊の攻撃を受けて第五戦隊の旗艦『妙高』が雷撃により脱落。そこで旗艦を『羽黒』に変更して、被害の無かった『鳥海』と共に引き続き進撃した。またこの頃、米軍艦載機の攻撃を一手に引き受けた感のある戦艦『武蔵』が沈没し、駆逐艦『浜風』と『清霜』が救援の為に艦隊から離れた。但し筆者としては、『武蔵』が最初から被害担任艦であったとは考え難くく、結果論として落伍した時点で多くの米軍機の攻撃を吸収したと思っている・・・。
さて、こうしてシブヤン海の激戦を生き残った『鳥海』は、いよいよ最後の戦いへと突入していく。
25日のサマール沖海戦で敵艦隊と交戦した『鳥海』だが、米海軍の護衛空母を攻撃中、護衛空母『ホワイト・プレインズ』の砲撃によるものだと思われる命中弾により、右舷船体中央部に被弾、甲板に装備した魚雷が誘爆し機関と舵が破壊され戦列を離脱した。『羽黒』の戦闘詳報には、08時51分に「『鳥海』敵主力ノ集中射撃ヲ受ケ右舷中部ニ被弾」との記録が残っている。
但し、この時の『ホワイト・プレインズ』の砲撃によるとされる被弾は、味方の戦艦『金剛』による誤射だったという説もあり、残念ながら筆者もこの説の可能性は高いと考える。
この時、『金剛』は米護衛空母『ガンビア・ベイ』を我が重巡戦隊と共に砲撃中であり、08時50分に「空母一隻大火災大爆発」を得て射撃を中止したとされているが、実際には『金剛』の見張員が『鳥海』を誤射したことに気付いて艦橋に報告し、それを聴いた『金剛』の艦長(島崎利雄大佐)が射撃を中止させて以降の攻撃を見合わせた、との話もあるのだ。
またこの件に関して、傍にいた『羽黒』乗組員に対して、『金剛』が『鳥海』を誤射した事に関して厳しい箝口令が敷かれたというが、当時から一部の関係者には『鳥海』が第五戦隊(橋本司令官)の命を待たずに突出した為に味方の誤射を受けた、と考える者がいた様である・・・。
そして丁度その頃、近海を漂流していた『ガンビア・ベイ』の乗組員たちの証言では、『鳥海』は一旦は立ち直って動き始めたが、その直後に再び米軍艦載機の攻撃を受けて被弾炎上し、海上に停止してしまったという。
この空襲で『鳥海』は、機関室前方に500ポンド爆弾を被弾し再び激しい火災を発生し大破、大幅な速力低下を招き、やがて操舵不能の状態で身動きが取れなくなる。そこで、夕雲型駆逐艦『藤波』(艦長、松崎辰治中佐)が彼女の救助を命じられた。
その後、激しい火災が広がり断末魔に喘いでいた『鳥海』は、同日、『藤波』の魚雷で処分された。初め『藤波』は『鳥海』の周囲を警戒しながらその復旧を待ち続けたが、いつまでも炎上し続ける『鳥海』に関して、日没に至って遂に放棄が決まったのだ。
『藤波』は生存者を救出した後に『鳥海』を雷撃処分すると、別れの発光信号を明滅させながら離れて行き、その後、単艦でコロン島に帰投することとなった。またその際に『藤波』乗務員たちは、周囲に漂流していた敵艦『ガンビア・ベイ』の生存者たちに気づくと、一斉に敬礼をして立ち去ったという。
10月25日夜、第31駆逐隊の夕雲型駆逐艦『沖波』(艦長、牧野坦中佐)は、サマール島沿岸を航行する2隻の艦艇を認めたが、それが『鳥海』と『藤波』であったかは不明としている。
そして翌10月26日朝、夕雲型駆逐艦『早霜』(艦長、平山敏夫中佐)はミンドロ島南方を航行中に第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機の攻撃を受け、艦首部と艦中央部の命中弾によって艦首と二番煙突を吹き飛ばされ、沈没を防ぐためにアンティーケ州セミララ島の浅瀬に自ら擱座していた。
26日昼過ぎ、上記セミララ島付近で座礁した『早霜』に燃料補給を実施していた『沖波』は、姉妹艦の『藤波』らしき駆逐艦を10kmほど沖合に発見するが、その彼女が空襲により轟沈するのを目撃したとされている。また、『早霜』の救助に『沖波』と共に近辺にいた『藤波』も加わったとの記述が多くの戦記史料に見受けられるが、それは誤報と思われる。
米軍によれば『藤波』は10月27日に艦載機の空襲で撃沈された、とされている。いずれにせよ『藤波』が失われたことで、『藤波』に同乗していた『鳥海』の生存者も皆同じく戦没したのだった。
こうして『鳥海』は、昭和19年(1944年)12月20日に除籍された。また最後の状況から、戦後になり長崎県佐世保市の東公園(旧佐世保東山海軍墓地)に『鳥海』と『藤波』連名の慰霊碑が建立された。
太平洋戦争において、『鳥海』に限らず日本海軍の重巡洋艦に与えられた任務は、伝統的な漸減作戦で想定された敵主力艦隊に対する殴り込み夜戦などではなく、空母機動部隊の直衛や輸送船団の護衛といったものが多かった。その為、本来は艦隊決戦用に特化されて設計されていた我国の重巡洋艦にとって、そのような任務はいささか場違いであったかも知れない。
だがしかし、南太平洋の各海域で見せた敵巡洋艦(時には戦艦も)や駆逐艦を相手にした壮絶な(近接での)殴り合いにも等しい砲雷戦において、我が方重巡がその真価を発揮した場面は幾度となくあったし、特に一部の夜戦においては連合軍を一方的に叩いて溜飲を下げたこともある。だが、レーダーの性能向上と空母機動部隊を中心とした連合軍航空戦力の圧倒的な力の前に、戦争中盤以降は彼女(巡洋艦戦隊)らの奮闘空(むな)しく、その喪失が相次ぐ事態となっていったのだった。しかしそんな中でも、数々の武勲を上げた艦との評価が高いのが、本稿の主人公である『鳥海』なのである・・・。
-終-
【余談】
子供心にも感じていた『鳥海』(高雄クラス)の独特のスタイルのカッコ良さ。はるか後年のロボット・アニメに登場する宇宙戦艦(いや、やはり航宙艦? だろうか)としても、全く違和感のない、非常に未来的な機能美を思わせる勇姿だ。
そこには同時代の欧米の軍艦には見られない、あの日本の城郭(天守閣)を思わせる豪壮な艦橋付近の構造物と、その巨大な質感と反比例するかの様なスマートな船体やバランスのとれた砲塔配置が、何ともいえない「良い景色」を創り出していたのだった・・・。
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