しかし、「徴兵令」を出して「戸籍」の整備を進めても、多くの平民/庶民に名字(苗字)が無ければ徴兵作業がスムーズに進まない。そこで当時の陸軍部の首脳陣は、国民全員に苗字を名乗らせて効率よく確実に徴兵を実施しようと考えたが、庶民階級一般には名字(苗字)をつける習慣がなかなか普及せず、そこで管轄の役所から一方的に対象者の名字(苗字)を決めて各家の門前に表札を打ち付けたという逸話も伝わるくらいだ。但し当時、多くの者たちが名字(苗字)を名乗りたがらなかった理由には、徴兵を恐れてという事と共に、厳しく課税されるのではないかという心配があった様である。
また明治期以降になって、それまで名字(苗字)が無かった者たちが名字(苗字)を届け出る際には、もちろん自ら名字(苗字)を考えることもあった様だが、親族間で相談して決めたり、菩提寺/檀那寺などの僧侶に名付けてもらったりもした。またその際には、必ずしも先祖伝来の由緒や名乗りには拘らず、全く新しい名字(苗字)を創作した者も多かった様だ。
ところで、諸外国に伍して、近代的な国家として充分な戦備を整える必要性に迫られていた明治初期の我国では、「動員」を意識した政策が執られていた。
読者の多くは、「動員」とはある目的の為に多くの人や物を集める行為だと思われるだろうがが、軍事用語では、軍隊を平時の体制・編成から戦時の体制・編成に切り替えることやその状態を言う。またより具体的には、その目的の為に事前に登録されている兵員やその候補者を速やかに決められた地点に召集する作業や戦争遂行の為に国内外の資源・資金・生産設備や各種組織・人員などを政府や軍部の統制・管理下におくことを意味した。
こうして近代以降は、「動員」力の高い国家が戦争を優位に進められるという事は自明の理となっており、明治期の我国も「動員」の効率を上げる為に大きな努力をした。
即ち平時の徴兵のみならず、風雲急を告げる事態に遭遇した場合の国家的な「動員」に際して、兵員の対象者には招集令状に応じて予め決められた集合場所に期日までに集まる様にと「徴兵制度」は定めていたが、これも「戸籍」が整備されていなければ果たせなかったし、「戸籍」も招集対象者の氏名が確実に記録されていなければ要を成さなかったのである。
ちなみに明治政府も当初は徳川幕府と同じく、平民が名字(苗字)を持つことに関しては許可制を取っていた。しかし慶応4年9月5日には、従前から徳川幕府により認められていた農民や町人などの平民の名字(苗字)の使用を禁止するが、これは前政権の徳川幕府を否定する為の政策と考えられた。
更に慶応4年(1868年)1月27日、徳川幕府(徳川将軍家)から『松平』の姓を賜った者にこの名乗りを禁止して本来の姓に復するようにと布告したが、他方では平民でありながら明治政府への功績があった者に関しては苗字帯刀を認めることも行ったという。
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