その後、明治2年7月以降には「本姓」を名乗ることにした時期もあった。
ここでの「本姓」とは明治期以前の我国においての「氏(うじ)」のことで、名字(苗字)や家名とは異なる。これは「家系」を表すものでもあり、その「家系」に属していなければ本来は勝手に名乗ることは出来ない。例えば、「藤原氏」等や「源氏」・「平氏」などを指し、それに対して名字(苗字)は原則として誰でもが任意に持つことが可能であった。ちなみに織田信長の「本姓」は「平(たいら)」(平氏)で、徳川家康の「本姓」は「源(みなもと)」(源氏)である。但し、戦国時代の大小名などの「本姓」はそのほとんどが自称であり、先祖の「家系」の真偽の程は定かではない。
これに対して名字は当初「名字(な あざな)」と言われ、中国や韓国から我国に渡来した「字(あざな)」の一種であったとされる説が有力だ。だが歴史が経過する内に、従来の「氏」=「本姓」が同じ一族の中でも各家を区別する必要に迫られてきた結果、高位な公家(公卿)などが自らの邸宅付近の地名を我が称号としていた例は多い。彼ら公家の初期の頃の名字は一代限りのものであり、代々と受け継がれていく「家名」を表すものではなかったが、平安時代後期からは家系を示す「家名」と同義となる。そしてこれが以降の公家や武家において、その出身地や居館、領地(支配地)などの地名を付けた名字となっていった。
江戸時代になると、「苗」の字には血筋や血統などの意味があることから苗字の表記が多く用いられる様になるが、戦後は当用漢字の「苗」の読みに『ミョウ』が無かったことで、再び名字と書くのが一般になったとされている。つまり名字と苗字には、その意味において大きな違いは無い、というのが通説だ。
さて一時期「本姓」を使用することに復してはみたものの、公家出身者の多くが藤原姓であり、武家出身の者の大多数が「源」姓を名乗るなど、「源・平・藤・橘」の「本姓」で全体の84.6%を占める状態となってしまった。これでは姓の種類が足りずに各人の区別が困難となり、更に文明開花の時代の風潮にも合わなかった為か、「本姓」を使ったのは明治2年から明治4年までと短く、この制度は早々に廃止されてしまう。
また明治3年(1870年)には、当時の法制学者で教育者の男爵・細川潤次郎が平民に名字(苗字)の保持を許す規定を提案し、また「戸籍」制度による徴税の推進を重んじる大蔵省の考えにより名字(苗字)に関する政策は転換されていく。
明治4年10月12日になると、上記の通り「姓尸(せいし)不称令」が出され、以後日本人は公的に「本姓」を名乗ることはなくなった。
更に明治5年(1872年)8月24日の太政官布告により、公的に登録された「戸籍」上の氏名は簡単には変更出来なくなった。
そして冒頭の様に、明治8年(1875年)2月13日の「平民苗字必称義務令」により、国民は皆、公的に名字(苗字)を持つことに決まった。ちなみに、『平民苗字許可令』が出された9月19日は「名字の日」、『平民苗字必称義務令』の出された2月13日は「苗字制定記念日」となっている。
また意外なことに、明治9年(1876年)3月17日の 太政官指令によって、妻は「所生ノ氏」即ち婚前の名字(苗字)を変更しない事とされ、我国は「夫婦別姓」を採用する旨が発令された。そしてこの政策が現在と同様の「夫婦同姓」に転換されたのは、明治31年(1898年)になって明治民法が成立した以降からである。
こうして明治時代以降、我が国の名字(苗字)の種類は大幅に増えた。名字(苗字)の総数は江戸時代までは約1万種位とされているが、国民全員に名字(苗字)を名乗ることを義務付けた明治期以後においては10倍程度(約10万種)へと大幅に増加したとされている。だが、それ以降はさほど増えてはいないことから、それほどまでに明治維新による近代化改革が国民に及ぼす影響は劇的であったとも考えられるのだ。
また中国などの漢字文化圏の他国と比較しても、我国は例外的に名字の種類が多い国とされているが、やはりその原因は明治期の富国強兵政策にあったとも言えるのだ。
さて、読者諸氏の名字(苗字)も、明治期にご先祖が新たに創作したものかも知れない。それとも江戸時代以前から伝わる由緒ある名字(苗字)なのだろうか。どちらにしても何らかの意味や願いが込められた可能性がある。これを機に、その由来を調べてみては如何だろうか・・・。だが、まったく無意味なもので、その時の「ノリ」で決められた名字(苗字)(例えば、田んぼの真ん中に住んでいたから『田中』さん、とか)だったとしても、せっかく長年にわたり受け継いできたものであるから、(他人事ながら)まぁ、出来るだけ大切にして欲しいと思う(笑)。
-終-
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