名前の由来
この刀の名前の由来としては、いくつかの伝承がある。最も有名なものには、自分の領地に化物が出るという噂を聞いた武士がその化物を退治に赴くと、夜中に子供を抱いた怪しげな女がやって来た。そして石灯籠のところまで来ると、「にっかり」と笑って「あの御武家様に抱かれなさい」と命じたところ、その子供が近寄って来たので怪訝に思いその子を切捨てたところ、更に先程の女が「さらば私が抱かれよう」と言いながら寄って来たので、これは妖怪・幽霊の類であろうと切り捨てたという。
そして翌朝にその現場を検めてみると、石灯籠が二つあり、其々が真っ二つになっていたと伝わる(『享保名物帳』より)。この場合の幽霊を退治した武士の名は、近江国の蒲生郡八幡山付近の領主で、中島修理太夫とか九得太夫とかいう者、もしくはその弟の中島九理太夫または中島久得太夫と呼ばれた者とされている。
また他説には、浅野長政家臣の某が甲賀から伊勢へと鈴鹿越えをして旅行をした時に夜道で怪しげな女とすれ違うが、その女が振り向きざまに「にっかり」と笑うのに不気味さを感じ取った男は、すぐさま化物と直感して女の首を刎ねたそうだ。翌日、旅の帰り道でその場所を調べてみると、そこには首無し地蔵があったと云う(『常山紀談』より)。因みに、浅野長政も近江国内に領地を得ていた時期が長い武将である。
更に、京極家の云い伝えによれば 江州(近江国)佐々木家の重臣で十番備の頭をしていた駒丹後守が蒲生郡長光寺村において、「にっかり」と(不気味に)笑いかけた女を斬ったという。しかしここでの駒丹後守とは、六角義賢に仕えた狛丹後守を指す様である。
さてその後、柴田勝家が織田信長の命で近江国の長光寺城(現在の近江八幡市長光寺町付近にあった六角氏の支城だが、織田勢が攻め取っていた)の守将となっていた時期があり、勝家はこの地で彼(か)の妖刀を入手して養子である勝敏(勝久とも)の差料とした。だが柴田勝敏は天正11年(1583年)の正月、賤ヶ岳の戦に敗れて丹羽長秀に捕らえられて斬首される。その時、『にっかり青江』は長秀が捕獲して子の長重に与え、この頃に例の所持銘が切られたのだろう。
その来歴
前述の様に怪異の女(もしくは石灯籠)を切伏せた人物には諸説があるが、どちらにしても近江国に所縁のある者で、その後、この刀は何らかの経緯を経て、女を切った人物から柴田勝家のものとなり、次いで子の勝敏に譲られた。更に柴田勝敏を討った丹羽長秀(と長重)の所有となり、やがて長重はこれを豊臣秀吉に献上したのである。
ところで秀吉は大変な名刀の蒐集家(コレクター)であり、数多くの名刀を格付け毎に、「一之箱」から「七之箱」までに分類して保管していた。最下級のランクである「七之箱」でも『宗三左文字』や『竹俣兼光』、『実休光忠』などの名刀が納められており、その総数は171振(169振とも)にも及んだとされている。
『にっかり青江』も秀吉に珍重されて、上記の「一之箱」に入れて丁重に保存されたが、ちょうどその頃、本阿弥光徳が押形をとっている。その時は既に2尺に磨り上げられていたそうで、所持銘も「羽柴五郎左衛門尉長」で「長」以下が切れていた。また最後の磨上は秀吉によると思われている。尚、本阿弥光徳は秀吉の子・秀頼から命じられて、埋忠寿斎(うめただじゅさい)に依頼して新たな拵えを二つも作らせたという。
その後、秀頼が『にっかり青江』を京極家に贈ったとされる。それは、大阪冬の陣の講和の礼としてであったとされ、京極忠高が義母の常高院(初、姉には秀頼の母・淀殿、妹には徳川秀忠の正室・江がいた)と共に徳川家との和平の仲介をしたから、と考えられている。
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