日本海軍最後の傑作戦闘機『紫電改』とは・・・(そして再現なるか実物大レプリカ制作!!) 前編 〈3JKI07〉

『紫電改』の原型、『紫電』とは・・・

太平洋戦争も中盤以降になると大馬力で重武装の連合国空軍機が次々と登場して、如何に名機と云われた『零戦』でも、改良版の逐次投入では主力戦闘機としての立場を維持することは困難であった。そこで日本海軍は、制空権の奪回と本土防空の為に、完全な新型機種としての後継主力戦闘機の開発を急いでいた。

また海軍にとって、開戦初期には航空母艦(以下、空母)で運用する為の艦上戦闘機(海軍では「甲戦」と呼ぶタイプで、航続距離の長さや格闘性能を重視した空母で運用可能な戦闘機のことで、陸軍の「軽戦闘機」とほぼ同じ)が重要だったが、太平洋戦争も中盤に入る昭和18年以降は、防戦にまわった戦争の局面による戦線の縮小と有力機動(空母)部隊の喪失によって、陸上基地で運用出来る比較的航続距離の短い局地戦闘機(海軍では「乙戦」と言い、火力と上昇力に優れた戦闘機を指し、陸軍の「重戦闘機」に近く、所謂“インターセプター Interceptor = 邀撃/迎撃戦闘機”的な役割を担っていた)へと優先順位が変更されていた。

ちなみに、日本海軍には「甲戦」・「乙戦」以外に「丙戦」があり、敵の爆撃機に対する迎撃戦闘に特化した戦闘機(主に夜間戦闘機)のことを指した。(例としては『電光』・『極光』・『彗星』・『彩雲改』・『試製キ94』など)

 

%e5%bc%b7%e9%a2%a8117%e3%80%80img_5
水上戦闘機『強風』 中翼形式の主翼が顕著

さてその少し前、水上機の製造に関しては名門であった川西航空機は、既に開発済みの水上戦闘機『強風』(N1IK1)を設計変更すれば短期間で新型の陸上戦闘機(局地戦闘機)が開発可能であると海軍に提案したが、実はこの提案の背景には既にこの頃、鈍重な水上戦闘機の活躍の場が著しく減少していたことがあった。

重くて空気抵抗が大きいフロート(水面に浮かぶ為の水上飛行機特有の降着装置)を持つ水上戦闘機は、翼面荷重を小さくして格闘戦性能を高める必要があったが、その点では『強風』は比較的面積の大きな主翼を持っており、敵戦闘機との空中戦を互角に渡り合える機種の原型(ベース)となる素質を持っていた。そこで川西の首脳陣は、この『強風』を陸上機化して汎用性の高い陸上戦闘機(局地戦闘機)を開発しようと考えたのである。ちなみにこの時、『二式大艇』を陸上爆撃機に改造する案もあったというから驚きであるが・・・。

さてここで少し時間を遡ると、太平洋戦争開戦直前の頃に中島飛行機によって、2,000馬力クラスの小直径で空冷星型18気筒の発動機“誉”が完成していたが、この発動機の略符号は海軍では「NK9」とされが陸軍では「ハ45」と呼ばれた。主に生産された型式には“誉”11型、“誉”21型、“誉”24型ル装備(試作)などがあり、昭和17年(1942年)9月に制式採用された。18気筒35,800cc、二重星型空冷で離昇2,000(公称1,860)馬力である。

そしてこの状況を受けて直ちに日本陸軍は、この高性能発動機を搭載した四式戦闘機『疾風』(キ84)の開発を中島に命じたが、一方で日本海軍はこの強力な発動機の活用に着手出来ずにいた。

それは既に三菱重工が開発を手掛けていた新型局地戦闘機(乙戦)の『雷電』(J2M2、上昇力と速度を重視した一撃必殺型の戦闘機)が、多くの課題を解決出来ずに実用化が遅れていて未だに飛行試験を繰り返しており、その他の諸問題も含めて“誉”発動機の搭載を計画した艦上戦闘機(甲戦)『烈風』(A7M1、『零戦』の後継となる艦上戦闘機)の開発に取り掛かれる状態ではなかったのだった。結果として『烈風』の開発計画は大幅に停滞(最終的には頓挫)してしまう。

この様に『烈風』の開発が遅延してることに苦慮していた海軍では、水上戦闘機『強風』を再設計して陸上戦闘機を開発するという川西の計画を直ちに承認し、昭和16年内には開発着手の指示を下した。そこで完成を急いだ川西は可能な限り『強風』の機体を流用するつもりだったが、実際には発動機を“誉”へ換装(『強風』は三菱製の“火星”を搭載)したことで大幅な設計変更が必要となり、現実に流用出来たのは極めて限られた部分(例えば、操縦席付近)となった。

しかし翼廻りについては車輪収容部分の追加を除いてはほぼ原型のままで、翼型も「層流翼」(「LB翼型」)を引き継いでいる。また川西はこの新型機に『強風』譲りの「自動空戦フラップ」を採用したが、この新機構は空中戦で失速しそうになると自動的に揚力が回復する様にフラップを自動調節させるというもので、速度計用のピトー管(発明者アンリ・ピトー:Henri Pitotに因んで命名された、流体の流れの速さを測定する計測器)と水銀の入った管を結ぶとその飛行機の速度に応じた水銀の高さが得られるので、水銀の入った管内に電極を2本セットして何れもが水銀に触れている状態をフラップ上げ、1本しか触れていない状態は静止、2本とも触れていない状態がフラップ下げ、といった形でフラップが自動的に作動するメカニズムを創り出したのだった。

また、川西の清水三朗技師の発想によるとされるこの「自動空戦フラップ」は、翼面荷重の大きいこの機においては予期以上の効果を挙げたと云われ、比較的容易に製作が出来て軽量でもあり、調整が行き届けば動作も安定していた。終戦後、この装置を本国に持ち帰り調べた米軍はその巧妙な機構に驚いたという。

次のページへ》     

《広告》