しかし当初、“誉”発動機の不調も相まって、何とか試作1号機が種々のトラブルをクリアして初飛行を迎えたのは昭和17年12月31日のことであり、こうして紆余曲折を経てこの機は『紫電11型』(N1K1-J)と命名された。だがその後、この試作1号機の飛行試験は上記から約2ケ月間にわたり伊丹飛行場で実施されたが、この期間に数々の問題点や課題が判明した。
先ずは、水上機の中翼形式をそのまま引き継いだことや太い胴体による、前下方の視界不良や主脚が長くなり過ぎた結果として一度縮めてから折り畳むという複雑で壊れやすい特殊な主脚装置の欠陥、更に離陸時における左旋の傾向などの問題点が明らかとなった。特に主脚装置の損傷は実戦に配備された後も、多くの搭乗員を悩ませたと云う。(『紫電』の配備された初代343空では、ある時期においては3日に1機の割合で脚部故障により失われる機体が出たとされる)
飛行性能もとても当初の計画値に及ばなかった。特に最高速度は、計画では時速650kmのところを、時速580km(570kmとも)程度に止まってしまった。(但しこれは、当時の主力戦闘機『零戦52型』を10~20km程度は上回るものであったのだが・・・)
とは言え、この『紫電』が完成した時期は『F6Fヘルキャット』や『F4Uコルセア』、そして『P-51ムスタング』らの米軍新鋭機が次々に現れて、当時の日本海軍の主力戦闘機である『零戦52型』(A6M5)では連合軍の新鋭戦闘機に太刀打ち出来なくなってきた事や、ようやくにして完成した局地戦闘機『雷電』の実戦配備が大幅に遅れていた事、また艦上戦闘機『烈風』の開発の目途が立たない事などが主な理由となり、多くの問題点を残しながらも強力な火力と比較的良好な操縦性(空戦能力)やある程度の航続力に期待して制式機として採用し、同年8月10日には量産が決定される事になる・・・。
そして『紫電』はその後、武装(20mm機銃の数)を強化した『紫電11型甲』(N1K1-Ja)や『紫電11型乙』(N1K1-Jb)、爆装(250kg爆弾2発の懸架等)を施した『紫電11型丙』(N1K1-Jc)へと改造され、合計1,007機が生産された。
昭和19年8月から9月にかけて新鋭戦闘機として第341海軍航空隊(略称341空、開隊時は戦闘401飛行隊及び戦闘402飛行隊で編成、『紫電』の充足に伴い戦闘701飛行隊が加わったが、何れも後に343空へと編入)に配備されて台湾に進出し、次いで秋にはフィリピンに移動して捷号作戦に投入された。 したが、依然として発動機の不調や主脚装置の故障に悩まされてその可動率は低かった。殊に高空性能に不満を持つ搭乗員もいた様で、空戦時に自転を起こし易い欠陥もあったと伝わる。
252空や343空で活躍した宮崎勇飛曹長(ポツダム少尉、『還って来た紫電改 紫電改戦闘機隊物語』の著者)は、『零戦』に比べて機銃の命中率は良く高空性能・降下速度は優れていたが、鈍重で空戦性能は『零戦』より遥かに劣る「乗りにくい」戦闘機であったと評している。更に341空で戦闘701飛行隊長だった岩本邦雄大尉や後に343空戦闘301飛行隊所属で菅野大尉の部下となる笠井智一上飛曹(『最後の紫電改パイロット』の著者:潮書房光人社刊)によると、当初の『紫電』では『F6F』には手も足も出なかったという。
また初めて『紫電』を見た笠井は、この戦闘機が米軍の『F4Fワイルドキャット』と酷似していたと証言しており、現実に味方の陸軍による誤射で撃墜された機や、逆に米軍機を誤認させて接近した上で撃墜した例もあると云う。この点では後の『紫電改』でも似た様な事例が多々見られる(後編で再度記述)。
やはり水上機からの転換という拙速で粗削りの設計が祟ってか、新型機『紫電』は多くの海軍戦闘機隊員の期待には充分に答えられなかったのだった。
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