日本海軍最後の傑作戦闘機『紫電改』とは・・・(そして再現なるか実物大レプリカ制作!!) 前編 〈3JKI07〉

『紫電改』・・開発の経緯

さて折角導入された新型機『紫電』だが、視界不良や主脚装置の欠陥は軽視出来ず、もともと生産性が低くいタイプであったことに重ねて川西航空機の生産能力が極めて脆弱であり、その大量生産は頓挫してしまう。この結果、海軍は川西に対してこれらの問題点の改善を強く命じた。

そこで川西は『紫電11型』の欠点を改善する為、『紫電』の試作機が飛行してからわずか5日後の昭和18年(1943年)1月5日には、『紫電』を低翼化した「仮称一号局地戦闘機兵装強化第三案」の設計に着手した。海軍はこの川西の計画を承認、3月15日には正式に「仮称一号局地戦闘機改」の試作を命じた。尚、海軍では当初、『強風』の改良型である水上戦闘機に関しても陸上機と同様に開発を継続する意向であったが、戦局の悪化により水上戦闘機の必要性は減じ汎用の陸上戦闘機のみの開発が続行されたと云う。

この試作1号機は設計開始後11ケ月を経て昭和18年12月の大晦日(12月31日)に完成し、翌年の昭和19年1月には鳴尾飛行場で評価試験が行われた。そして、その後の飛行試験では最大速度620km/hを記録して海軍関係者を喜ばせたが、後にこの機が『紫電』に徹底的に改良を施し低翼式とした『紫電21型』(N1K2-J、通称『紫電改』)の名称で制式採用される局地戦闘機である。

しかも搭載していた“誉”21型発動機が「焔色不調」(混合気が各気筒に均等に配分されないことで起きるエンジントラブル)により全力運転が出来ず、本来の90%程度の回転数での最大速度に関する計測値であった。こうして運転制限下でも好成績を残した『紫電21型』試作機に関して、海軍は大きな期待を寄せたのである。

%e7%b4%ab%e9%9b%bb%e6%94%b91119%e3%80%80ans-391369279この『紫電21型』は、中翼を外形・面積は同じままで低翼にしたことで前下方視界が改善されて、更にトラブルが多発した二段伸縮式の主脚も主翼の低翼化に伴って廃止された。

胴体は直径の小さい“誉”エンジンに合わせてやや細く絞られたとされ(空気抵抗の減少に寄与、但し、全長が長くなった分、スッキリとした印象が増しているともとれる)、また垂直尾翼(方向舵)は形体を変更すると共に水平尾翼より後方側に移設し離陸滑走時の左旋回癖を回避するなど、主翼以外の各部が全面的に改修された。

尚、胴体は400mmほど延長されており、水平尾翼の取り付け位置が下げられたとの説もある。一番の特徴は、全長が460mm程度長くなった点で、全体的に『紫電』に比べてスマートな印象となったが、自重で197Kg、全備重量では250kgほど増加している。またファウラー型の「自動空戦フラップ」も改良され て問題なく動作する様になり、後述の「腕比変更装置」も充分に成功を収めた。更に20mm機銃はベルト給弾式に変更となり、4挺全てを主翼内に収容する形とされた。

他には、部品点数を大幅に減らして生産性の向上を図った。これは『紫電』が『零戦』と比較すると生産効率が低かったこともあり、より一層の大量生産が至上命令となった『紫電』の後継主力戦闘機として、約6万点あった『紫電』の部品点数を『紫電改』では約2/3の4万数千点に抑えて製造工程を早め、生産性を大幅にUPさせたのである。

そして『零戦』が採用していた昇降舵の剛性低下式操縦索と同様な考え方に基づいて、低・高速度域双方における操舵感覚と舵の効きを平均化する腕比変更の概念を導入した川西の技師陣は、操縦腕比の変更装置を考案して『紫電』や『紫電改』に装備した。だがこれは『零戦』の様に無断階に変更が可能なものではなく、手動二段(高・低速)切り換え式で、飛行試験の当初は三舵の全部にこれを取り付けていたが、後に方向舵に関しては除外して昇降舵と補助翼の操縦装置のみに使用した。

我軍の『零戦』で試みられたこの方法は、捕獲した『零戦』でこの装置を発見した米軍も、その効果(運動性能の向上)を確認して後に同様の装置を自軍の戦闘機に取り付けたと云う。

また『零戦』の弱点であり『紫電』にはなかった防御装備も、操縦席後方の防弾鋼鈑の設置(実験のみとされる)を除いては、風房正面を厚さ70mmの防弾ガラスとし、初期のタイプには間に合わなかったが主翼や胴体内に搭載された燃料槽は防弾タイプ(外装式防漏タンク)でゴム被覆が施されている。更に自動消火装置の設置も実施された。

ちなみに戦後の米軍の調査によると、燃料槽にセルフシーリング機能は無かったとされるが、平成19年(2007年)にオハイオ州デイトンにおいて復元のため分解された『紫電21型甲(改甲)』(5312号機)の燃料槽の外側に防弾ゴムと金属網、炭酸ガス噴射式自動消火装置が確認されている。

また『紫電11型』(N1K1-J)・『紫電11型甲』(N1K1-Ja)までは20mm機銃を主翼内に各1挺、両翼下面に各1挺を主翼下面に直接取り付けていたが、『紫電21型』(N1K2-J)では『紫電11型乙』(N1K1-Jb)と同様に、4挺とも翼内装備としている。

昭和19年(1944年)1月以降、海軍航空技術廠のテストパイロットである志賀淑雄少佐(後に343空の飛行長)、や古賀一中尉、増山兵曹らによって『紫電改』のテスト飛行が繰り返し実施されて、志賀少佐によると「原型『紫電』の欠陥が克服されて生まれ変わった」とされ、高い評価を獲得した。

そこで当時の海軍は、大幅に開発が遅れていた『雷電』と既に実用実験に漕ぎ着けた『紫電改』を比較したところ、『紫電改』は『雷電』よりも高速であり『零戦』との格闘戦でも互角の性能を示した。その結果、その汎用性は大きな支持を集めて局地戦闘機としてだけではなく、『烈風』の代替として次期艦上戦闘機にも採用されることになった。この艦上戦闘機への任用については、海軍航空技術廠の山本重久少佐による当時試運転中の空母『信濃』へ試作機である艦上戦闘機に改造された試製『紫電41型(改二)』(試製『紫電31型(改一)』 を改造したN1K3-A)による着艦実験も無事行われたことが伝わる(後編にて詳述)が、ちなみにこの頃、前述の志賀少佐は一旦『信濃』飛行長への着任が決まっていたが、同艦の沈没により343空へ配属となる。

その頃、戦局は一段と困難な局面を迎えており、米軍4発重爆『B29』や空母艦載機の本土爆撃・来襲が始まった。危機に瀕した海軍・航空本部は充分に実戦的であることを示した『紫電改』の実験審査を進めながらも、制式採用する以前の昭和19年(1944年)4月の段階で早々と量産開始を命じた(後述)のだった。

また、機体分類上は乙戦のままだが甲戦としても使える『紫電改』の汎用性を高く評価した海軍は、他の開発中の新型機の計画を差し止めて、本機を『零戦』の後継機として選定し次期主力戦闘機として大規模に配備することに決したのである。但し、制式機採用の日付は昭和20年1月となっている。

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