日本海軍最後の傑作戦闘機『紫電改』とは・・・(そして再現なるか実物大レプリカ制作!!) 前編 〈3JKI07〉

だが『紫電改』が部隊に配備されてから、訓練中及び実戦において空中分解を起こし、或いは胴体にしわがよる事故が発生した。343空戦闘301飛行隊の宮崎勇飛曹長率いる第2小隊が遭遇した事故がそれで、訓練中に第2小隊の第2区隊長(区隊は4機編隊で編成、2個区隊で小隊8機となる)の堀光雄上飛曹(愛称“ホリブン”、後に三上と改姓した『紫電改空戦記』の著者で戦後は全日空機のパイロット)の2番機が急降下後の引き起こし途中で空中分解、墜落した。また後に『B29』邀撃戦でも、同じ戦闘301飛行隊の仲睦愛一飛曹が空中分解を起しているが、何故かこの日も編隊リーダーは堀飛曹長(前述の事故の後、5月1日付で進級)で仲一飛曹(落下傘降下で一命を取り留める)は4番機だった。

実験機『紫電21型甲』(N1K2-Ja)の5243号機 (1945年、鳴尾工場で撮影)

『紫電改』の急降下制限速度については、『零戦52型甲』以降の『零戦』と同じ740.8 km/hだったが、試作機で志賀少佐が急降下テストを行った際には計器速度796.4km/hを記録している。

志賀はこの時、背面降下から入る急降下でダイヴ角度もほとんど垂直に近い、所謂「ターミナル・ノーズ・ダイヴ(terminal nose-dive)」/終局垂直降下」でこの実験に臨んだとされる。(彼も上記の最高速度を達成した直後に異常振動を感じてテストを打ち切ったと云う)

ちなみに米軍の『F6Fヘルキャット』の急降下制限速度は3型(初期量産タイプ)が768.6km/h、5型が796.4km/hであり、『F4Uコルセア』は1型系が740.8km/h、4型が787.1km/hで、『紫電改』と同等かやや優れていた。

フラッター現象(動翼のアンバランスによって起る翼の異常振動)に詳しい研究者が集まり、事故の原因を究明したが理由は判らなかった。戦争後半当時の製造・工作技術の低下が原因か、急激な空戦機動中に強度規定以上の荷重が加わった為と思われた。戦争末期には退避降下時に方向舵を強度規定以上に操作して急激な横滑りで回避する機動が戦闘現場で行われており、時々、原因不明の空中分解が目撃されたのだ。こうして『紫電改』のこの種の事故の原因は不明のままとなる。

昭和20年(1945年)1月、局地戦闘機『紫電改』(紫電21型)に対して正式に日本海軍史上最大規模の量産が命じられた。計画自体は既に前年(昭和19年)の秋より進められており、開発元の川西航空機の鳴尾・姫路両製作所はもとより、他社の三菱重工水島工場や愛知航空機、昭和飛行機などが他の既成機種からの転換生産を指示されて、更には呉の第11や大村の第21の両海軍航空廠や厚木・高座航空廠もこの動きに加わった。全体で8ヵ所において生産を実施し、昭和20年(1945年)夏頃には月産1,000機にしようという大変な計画だった。

一説には、既に昭和19年(1944年)3月には三菱重工に『雷電』と『烈風』の生産を中止して『紫電改』を生産する様に内示を出したともされる。更に海軍・航空本部は、昭和19年度(~1945年3月)に『紫電』と『紫電改』を併せて2,170機発注し、昭和20年1月11日には年産11,800機という生産計画を立てたともされている。

しかし激烈化する空襲被害の影響で計画は破綻し、川西で406機、昭和飛行機2機、愛知2機(1機とも)、第21航空廠で1機、三菱で9機(米軍調査の数値)が生産されたに留まった。また異説には川西で408機、三菱、21空廠が約20機というものもあり、生産総数に関しては諸説がある。

実際には合計415機とも420機±α(420機前後)とも云われる程度の数量しか作られず、この計画自体は絵に描いた餅であり無理な話もいいところだったが、それは戦争末期の断末魔の戦況の中で、当時の海軍の『紫電改』への期待がそれほど大きかったということであろう。ちなみに昭和19年(~1945年3月)度中に、試作機を含めて67機が生産されたとの情報もある。

また、『紫電改』は『強風』を基に度々改造を重ねた機体故、性能的な陳腐化は『零戦』より早いと海軍は見込んでおり、実際に制式採用から僅か4ヶ月後の昭和20年5月頃には、昭和21年以降を見越した次期主力戦闘機の開発が開始されていた。終戦迄には間に合わなかったものの、本機の更なる性能向上型の他に凍結されていた『陣風』の試作再開なども検討されていたとされるが・・・。

 

しかしそれ以降、『紫電改』の活躍は目覚ましく、『F6F』や『F4U』と互角以上に戦って輝かしい戦果を挙げたが、搭乗員の消耗と機材の補給途絶の為に次第に戦果は乏しくなっていった。また件の“誉”発動機は、中島の努力により随分と改善されたが、相変わらず信頼性に欠けており整備力の増強を図ったにもかかわらず、可動率は良好とはいえなかった。

だが昭和18年(1943年)以降の『F6F』や『F4U』、『P51』ら連合軍新鋭機の登場によって急速に現実問題化した『零戦』の旧式化にも関わらず、『零戦』後継機として海軍が本命視していた次期甲戦の『烈風』は昭和19年(1944年)になっても試作途中段階に留まっており、量産配備にはまだまだ時間が掛かるとの想定であった。

こうした影響により、分類上は迎撃戦闘機である乙戦のままであったにも関わらず、実戦では主な配備先の343空を始めとした部隊で、『零戦』に代わる次世代の制空戦闘機として運用されていく事になる。

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