最終回である今回は、就学に必要な費用と「寺子屋」の収入、そして師匠の身分やその規模・体制などの経営状態について述べて、 【江戸時代を学ぶ】シリーズ “「寺子屋」の実態”の締めくくりとしたいと思う。
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卒業後の進路
既に述べたように「寺子屋」における学習・教育は、単に知識を得る為だけではなく、江戸時代の庶民の子供たちの人格形成の根幹を支えていた道徳・修身教育にもなっていたが、12歳~15歳頃までにこの「寺子屋」での学習を終えた庶民の子供らの多くは、親元を離れて住み込みで仕事の見習いに出ることになる。そして商家なら丁稚奉公、職人なら年季奉公という形をとり、また女子の場合は教育の仕上げと躾を兼ねて、武家屋敷か大店の商店に女中奉公に出向くことが多かった。こうして彼らは他人の釜の飯を食べることで、仕事の厳しさと現実の世間というものを体験するのだった。
つまり逆説的に言えば、商家へ奉公に行く場合や職人の親方に弟子入りするなど、子供たちが実際に家を出て働き始める時期になるまでの、男子であれば12~13歳、女子では14~15歳迄を「寺子屋」へと通うのが一般的な姿であったので、平均的な就学期間は6年~8年くらいだろうか。しかし中には、それ未満で家業を助ける為に退学する者もあり、また逆に(稀にだが)それ以上の期間にわたって就学を続けて、学業をより専門的に極める者もいたのだった…。
尚、「寺子屋」を卒業して世間に出た者たちはその後、約10年間くらい勤め上げるとようやく一人前と認められ、親元に戻るか独立をし、または同じ勤め先で更なる出世を目指すなど、意外にも仕事の選択肢は多かった。但し庶民の女子の場合、その自立の道は限られていて、江戸時代の後期においては前回の第3回で示した様に、自ら「寺子屋」教師や習い事の師匠を目指す者も多かったとされている。
さてここで直接「寺子屋」とは関係はないが、卒業後の進路に関して商家へと進路をとった男子のその後の例を少し詳しく紹介しよう。
彼らは早い者で10歳、通常は11~12歳頃から商店に丁稚(でっち)として店に住み込んで、各種の使い走りや雑役、品物の運搬などの力仕事等をしながら礼儀作法をも含めた商人のイロハを学び始める。当然ながら、丁稚の中でも経験年数によって上下関係があった。また住み込みの為に四六時中、上司の番頭や手代から商人としての教育を受け、夕刻に閉店した後にも店の商売に関係する諸事や算盤(ソロバン)等を教わったという。
丁稚は無給だが、衣食住が保障されていた。また小正月(1月)と盆(7月)の年に2回、「藪入り」と言って実家へ戻ることが許されていた。この時は、女子も含めた奉公人たちはお仕着せの着物や履物、そして小遣いを与えられ、更には実家への手土産を持たせられて帰省した。また実家が遠方の場合は、店の付近で芝居見物や買い物などをして貴重な休日を楽しんだと云う。
※お仕着せとは、主人から奉公人へ与える着物のことである。季節毎に用意された衣服であった為に「四季施」という字が当てられる場合もあったが、普通は年2回の支給で現在のボーナスの感覚に近い。
尚、丁稚の呼び名の代表例は「○松」で、○の部分には本名の一字が入る場合が多かった。更に、他店やお客様からは江戸周辺では「小僧さん」、上方などの地域では「丁稚どん」や「坊主」などと呼ばれていたとされる。
さてその後、数年を経て店の主人の判断で手代(てだい)へと昇格する。丁稚から手代に上げれるまでは早い者で7~8年、通常は凡そ10年くらいかかった。また手代とは、その名の通りに主人や(店の管理職たる)番頭の手足となって働く者のことで、一般社員から下級の準管理職といったランクの職位である。また手代の呼び名は「○吉」や「○七」などが多かった様だ。また手代になると給金が支払われたが、彼らは未だ店住まいであった。
やがて有能な手代の中から欠員に応じて番頭(ばんとう)が任じられ、主人の代理として店の業務全般のマネージメント、例えば商品の仕入れや在庫管理、売上金などの金銭に関する出納や帳簿の記帳・整理、また同業者の寄合への出席など、商家の支配人としての重要な業務を任されるようになっていく。規模の大きな商店では多数の番頭が大中小などの番頭に位分けされる場合が多く、呼び名としては「○助」等があった。
※江戸幕府においては大番の指揮官を大番頭(おおばんがしら)と呼び、番方(武官)の中で最高の格式(家禄5千石以上)を誇る重要な軍事指揮官であったが、当然乍ら商家の番頭(ばんとう)とは全くの別物であり、注意を要する。尚、大番(おおばん、大御番)とは江戸幕府の軍事組織の一つで、常備兵力として旗本を編制した有力部隊であった。
また番頭に昇格出来るのは凡そ30歳前後以降であり、しばらく番頭の仕事を大過なくこなせれば、支店を任されたり暖簾分けを許されて自分の店を持つことが可能となった。もちろん大店の場合は、そのまま店で働き続けて使用人の頂点である大番頭を目指すことも出来た。
※番頭は手代までとは異なり、勤務時に羽織を着用することが許されていた。そして自宅を構えて店に通うことや、所帯を持つことも許可されることが多かった。
但しそこまでの生存競争は大変厳しく、江戸期の三井家(越後屋)を例にとると、丁稚から暖簾分けを許されるまでに生き残る者の確立は1/300程度であったともされる。
ところで意外なことに奉公人は生涯を同じ店で働くと限らず、彼らの奉公替えは度々あったと伝わる。優秀な手代には他店からの引き抜きの誘いも多く、給金などに関して好条件を提示してくれる他店に移籍するか、同じ店で番頭への昇格を目指すか、場合によっては独立して自分の店を持つか等、選択肢は多種多様であったのである。
例えば近江商人の場合など、長年務めた奉公人よりも優秀な中途採用者が上位の職に就くこともしばしばであり、徹底した能力主義を採用していた。
但し、優秀な商人となる為には実務経験だけではなく、商いに関する知識を更に深める必要があったのだが、この際にも「寺子屋」が彼らを手助けした。ちなみに「再学」という言葉があるが、これは通常の「寺子屋」カリュキュラムを終了した後に、より高度な学習の為に再入門することを示す言葉である。即ち「寺子屋」には、初・中等教育機関としての存在意義だけではなく、より高度な成人教育機関としての意味合もあり、この場合の入門者は既に一旦卒業した社会人(商家の奉公人など)たちであったのだ。