師匠の身分や職業
「寺子屋」等の家塾・私塾の設置については、幕府や各藩が表だって関与しなかったので、何人も随意にそれらを開設することが出来た。そして、その教師の中には世襲であったり弟子が引き継いだ場合もあり、類代の生徒(「寺子」・「筆子」)たちはその師家を尊敬する風習が強かったと云えよう。
またこれらの「寺子屋」の師匠の身分や職業は、武士、農民、村役人、神官、僧侶、医者、町人その他と千差万別であった。本業が別にある場合や「寺子屋」以外に副業を持つ場合、隠退などで「寺子屋」の師匠が本業となっている場合やもともと「寺子屋」の師匠専業(家業)である場合など、様々である。
特に身分については、江戸時代後期・幕末においては全国的に見れば平民(有識の町民や村吏など)が最も多く、次いで武士(浪人含む)や僧侶・神官がこれに次ぎ、更にその他(書家や医家等)などとなっている。但し、この比率は地方によっても異なっており、平民に次いで武士より僧侶の多い地方もあり、後述の青森や岩手などの様に平民より武士の多い地方も稀にあった。
江戸時代後期における全国平均では武士階級が25~26%、平民が40%弱、神官が8%弱、僧侶が18%程度、医者などが9%弱となっているが、史料・時代によってもこの比率は大きく変動する(文部省編『日本教育史資料』他による)。
※『日本教育史資料』とは、明治23年に文部省から刊行された『日本教育史料』(以下『資料』と略す)は、同省が明治28年、各府県に達し学制頒布以前の学事に関する事項について調査をし、それを編集したものである。調査開始が廃藩置県後10年余を経ている為に基本的な資料が散逸してしまったりして、正確を欠く部分があることは否めないが、江戸時代中後期から明治初年にかけての庶民の初等教育機関の様子について全国的な視野で眺望できるものとして、これを避けて通ることはできない。
女性の師匠もいたが、通常は教養のある武士階級出身者か武家屋敷勤めの経験がある婦人が中心であり、そこには軽輩の武士(幕府の御家人や下級藩士など)の妻などもいたし、幕末期になると町人の娘ながら「寺子屋」で研鑽を積み独立して師匠となった女性なども存在した。また父娘・夫婦・兄妹で師匠となった場合も多く見受けられ、特定の女子向け教育には女性の教師が活躍したとされる。
都市部の代表例としては、明治初期に東京府が小学校整備の為に実施した「寺子屋」の調査書が残されているが、そこには「寺子屋」の師匠726名の旧身分が記載されていて、そのほとんどが平民(町人)の出身であり、またその内86名が女性の師匠であった。
幕末の江戸近郊の譜代大名家領の場合、忍藩(現在の埼玉県行田市・深谷市・熊谷市近辺)領内の師匠の身分に関しての調査では、武士4名、村吏11名、農民3名、僧侶30名、修験者6名、不明12名、合計66名とあり、僧侶と村吏の数が多い。
また他の記録では、現在の千葉県袖ヶ浦地域で確認できる師匠の数は35名であり、その内訳は僧侶が10名、農民4名、神官4名、医師が3名、不明14名である。
江戸から遠く離れた地方の農村地帯の例として、弘化・嘉永年間(1844年)以降から幕末にかけての青森地区での「寺子屋」師匠の身分調査を見ると、武士が76名、平民が49名、神官14名、僧侶が14名、医師が8名、修験者4名となっており、武士の比率が多い。また岩手の例(後述)でも武士階級の師匠が圧倒的に多くを占めていた。
「寺子屋」の規模・体制
「寺子屋」の規模や体制は、経営者の師匠1名の場合が最も多かったと考えられるが、その場合の生徒数は30名~60名程度のところが多かっただろう。稀に1人で200名もの「寺子」を担当していた強者の師匠もいたが…。もちろん、兼業としてわずかに7~8人の面倒をみるという小規模なところもあったし、農村部などでは普段は15名程度だが農閑期になると生徒数が倍増する「寺子屋」もあった。
逆に、他人を教師に雇用した場合、複数人で分担して数多くの「寺子」の面倒を見た大規模校もあり、3人~5人の教師で200名~300名の生徒を有した「寺子屋」は多く、中には1,000名超の規模のところも記録に残っている。また前述の様に男女の師匠がいて、高学年からは男女別学級として学習が進むのはごく普通に見られた形態である。中には優秀な女性の教師による女子向けや女子中心の「寺子屋」も存在したが、これは大都市部に限られていた様である。
師匠によっては、一部の科目の教授に止った「寺子屋」もあり、また“御談義”と称して特別な修身訓話をする場合もあった。変わり種としては、謡曲などを教える「寺子屋」さえあったという。更に、大人の生徒も受け入れた夜学スタイル(前述の「再学」等)もあった。名称については特別に命名した場合もあるが、特に名前の無かった「寺子屋」も多い。
また規模の具体的な調査には既述の忍藩でのものがあり、「寺子」数では小規模な場合が38名、平均的なものが50名~80名、大規模なものは185名、200名、218名、特に規模の大きなものには小泉彰の『芦花浅水書屋』の1,000名、布施田仙蔵の『布川堂』の同じく1,000名などというものが記録されている。
更に地方の状況として明治維新直前の岩手地域(南部・盛岡藩、一部に伊達・仙台藩など)を例にとると、該当の域内に「寺子屋」は二百数十程度(盛岡城下では23ケ所)存在し、その「寺子」たちも多いところでは、岩手郡雫石町の長山、村上与治郎兵衛が経営した「寺子屋」など一時は1,100名に達する程だったと伝わる。少ない処では農村地帯の10名内外、大概は60名~100名を抱えていた。
尚、この調査では「寺子」は男子がほとんどで、女子は盛岡城下周辺や南域の町部に限定され、最大の生徒数をもった村上与治郎兵衛の「寺子屋」でさえ、女子の「寺子」は皆無だったとされる。また「寺子屋」の経営者・師匠は藩士の出身者が多く、次いで藩士から帰農した農業従業者、僧侶・医師などで、専業教師は全体で10人内外、また女子の師匠は数名に過ぎない。
ちなみに特徴的な事としては、各地の郷土に即したオリジナル教科書を編纂して使用したことが挙げられる。例えば、伊達・仙台藩内では西村明観が『農家手習状』を、また遠野地方では萱沼左衛門が『遠野往来』を刊行しているし、小友などの金の鉱山地帯では『厚朴金山覚書状』を編纂して金山の状況を教えている。その他にも、中館衛門の『早池峰誌』、波岡務の著書『農民かまど立往来』、また武田三右ェ門の『俗言集』など、この地方で著わされた「往来物」は思いの外に多く、何れも郷士の実際生活に即した教材となっている。