今回の【古今東西名将列伝】では、第二次世界大戦において最前線を戦車部隊を率いて駆け巡った独軍司令官の代表として、“小さな巨人”ハッソ・フォン・マントイフェル将軍を紹介しよう。
また彼は戦車を駆るだけではなく、その小柄な体躯を活かした馬術の名手としても有名で、数々の大会で優秀な成績を収めていたことでも知られているが、終戦間際には多くの部下を救い、戦後は政治家として活躍して西ドイツの再軍備に尽力した。
マントイフェル家はプロイセンでも馬術に秀でた事で有名な騎兵将校の家系として知られていた。今回の主役、ハッソ・エッカルト・フォン・マントイフェル(Hasso Eccard von Manteuffel)も1897年1月14日に騎兵大尉エッカルト・フォン・マントイフェルの息子としてポツダムの同家に生まれ、1908年にニュルンベルクの陸軍幼年学校へと入校、1911年にはベルリンのリヒターフェルデ中央幼年学校へと進学した。
第一次世界大戦が勃発した後、“ユサール(Husar)”つまり軽騎兵の士官候補生として配属されていたブランデンブルク第3軽騎兵連隊にて1916年2月22日に少尉に任官、ヴェルダンやソンムの戦いに従軍、1916年10月に負傷して入院の後、1917年2月に第6歩兵師団の参謀将校として軍務に復帰した。
終戦後も彼は国軍に留まり、1919年5月に第25騎兵連隊に配属された。1921年にはエヴァルト・フォン・クライスト(最終階級は元帥)の姪と結婚して二児を儲けた。この後、幾つかの騎兵連隊で勤務しながら多くの馬術大会に参加、優勝を収め、1931年1月2日には“黄金馬術メダル”を受賞した。
1935年10月15日付けでマントイフェルは、ハインツ・グデーリアン大佐(当時)の率いる第2装甲師団の第2自動車化(第2オートバイとも)狙撃兵大隊長(騎兵少佐)に任命される。この頃、騎兵将校でありながら、いち早く自動車化された装甲部隊の重要性を見抜いていた彼は、グデーリアンの下で機甲部隊の運用を研究していたのだった。
2年後の1937年3月1日なるとベルリン郊外のヴュンスドルフの戦車訓練学校の教官となり、学生への装甲部隊の機動戦教育とともに、更に自らも戦車部隊の運用に関する戦術知識を深めることになる。そして1939年2月1日、ベルリンのクランプニッツ第2装甲部隊教育学校の教育部長に就任した。
こうして教官を務めていた彼は、第二次世界大戦開戦後のポーランド戦及びフランス戦前半には参加していないが、1940年6月13日、マントイフェルはロンメル少将(当時)指揮下の第7装甲師団所属の第3オートバイ狙撃兵大隊長になり、北部フランス地域で戦闘を体験する。
ソ連侵攻の“バルバロッサ作戦”が始まると、ヘルマン・ホート将軍麾下の第3装甲集団傘下の第39装甲軍団の先鋒として第7装甲師団第7狙撃兵連隊第1大隊長として、ペレジナ河徒河作戦で活躍した。
同年8月25日、マントイフェル中佐は(前任のウンガー大佐戦死により)第7装甲師団第6擲弾兵連隊長に昇任、第3装甲軍の主力の一角として“台風作戦”でもソ連軍を圧倒しながらモスクワまで約35km(23kmや50km説あり)の地点まで進出した。しかし12月5日にソ連軍の冬季反攻が始まると、過酷な冬季戦で甚大な被害を受けた第7装甲師団は撤退を開始、マントイフェルの連隊も退却を余儀なくされた。
この後、フランスで休養と再編成を実施した第7装甲師団においてマントイフェル大佐(1941年10月1日付けで大佐に昇進)は第7装甲擲弾兵旅団長に就いた(1942年7月15日付け)。
翌1943年の2月8日、彼は独伊混成の“フォン・プロイヒ師団”の指揮権を引き継ぎ(“マントイフェル師団”と改名)、ハンス=ユルゲン・フォン・アルニム上級大将指揮の第5装甲軍(後にアフリカ軍集団)のもと、アフリカ大陸のチュニジアで米英軍を相手に奮闘したが、過労により同年4月30日(3月末との史料もある)にはベルリンへと搬送された。
5月1日付けで少将に昇進した彼は、病気療養の後、同年8月1日に東部戦線で活動中の第7装甲師団長に就任。マントイフェルは8月26日にソ連軍の空襲で背中を負傷しながらも第7装甲師団を絶妙の指揮で導き、同師団は効果的な機動防御を実施して幾度もソ連軍機甲部隊の進攻を食い止めることに成功した。特に11月の後半、キエフ南方ジトミールの北部で独軍第48装甲軍団と共に第8装甲師団救出作戦を実施、一時的にせよ反撃を成功させて独軍南方軍集団を崩壊の危機から救ったとされる。
一説には、当時のマントイフェル少将はある意味、師であるロンメル将軍のドイツ・アフリカ軍団(DAK)の戦術(変幻無比、柔軟な機動による敵後方への奇襲など)を模倣して、東部戦線のソ連軍を悩ませたとも云う。
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