【古今東西名将列伝】 ハッソ・フォン・マントイフェル(Hasso von Manteuffel)将軍の巻 〈3JKI07〉

1944年8月、グロスドイッチェラント装甲師団長のマントイフェル

翌年1944年2月1日、中将に昇進した彼は“グロスドイッチェラント装甲師団”の師団長に任命され、ウクライナ南部で得意の機動防御戦を行った。その後、6月には同師団は東プロイセンへ移動、北方軍集団を救援することになるが、47歳のマントイフェルは9月1日付けで装甲兵大将になり、西部戦線の第5装甲軍の司令官に異動となった。

同年9月の限定的な反撃作戦を経て、独軍は西部戦線での最後の大反攻を開始する。“ラインの守り”(アルデンヌ攻勢)と名付けられたこの作戦には、マントイフェルが指揮する第5とヨーゼフ・“ゼップ・ディートリッヒSS上級大将の第6(1945年1月31日以降は第6SS装甲軍に改称)の2個装甲軍、並びに第7軍(エーリッヒ・ブランデンベルガー装甲兵大将指揮)が参加。アルデンヌ森林地帯を突破、ムーズ河を越えてベルギーのアントワープを陥れ、米英軍を撃破するというものであった。また第5装甲軍の作戦計画上の役割としては中央攻撃ルートが割り当てられており、ブリュッセルの確保が目的とされていた。

第5装甲軍司令官のマントイフェル

この時、第5装甲軍は3個装甲師団を含む8個師団の兵力で1944年12月16日に攻勢を発起、当初は奇襲に成功、また折からの悪天候により連合軍航空機の妨害を受けずに進撃が可能であった。そして包囲したバストーニュの町を後に残して西に向かったマントイフェルの部隊は、24日にはムーズ河手前のセルを占領した。

だが深刻な燃料切れと弾薬の枯渇により独軍(第5装甲軍所属第2SS装甲師団は前進を断念、この日の夜にはマントイフェルは作戦の停止と撤退をヒトラーに進言したが拒絶され、これにより、ようやく同地へと到着した米軍機甲師団の猛反撃を受けてセルに到達していた独軍部隊の攻勢は頓挫、以降は全面的な退却戦へと追い込まれ、同部隊は3日間の後には事実上壊滅してしまう。

また他の部隊、例えば第6装甲軍所属の有名なパイパー戦闘団(ヨアヒム・パイパーSS中佐指揮、新鋭のティーガーII型重戦車約20輌を含む約600両の車両と4,800名の兵員から成る精鋭部隊)なども同様に、食糧・弾薬・燃料等の欠乏により進軍が困難となっていたところに連合軍の反撃を受け、車両や装備を放棄して退却する道を選んだ。こうして“ラインの守り作戦”は、完全な失敗に終わる。

その後、1945年3月5日にマントイフェル将軍は再び東部戦線へと赴き第3装甲軍を指揮するが、既に独軍の崩壊は時間の問題であった。そこで彼は(ヒトラー総統の不合理な命令に従うことなく)極力無意味な戦闘を避け、捕虜への虐待が顕著なソ連軍ではなく可能な限り米英軍に降伏することを目的として行動することを部下の兵に命じ、4月27日以降、オーデル河から西方へと移動、5月3日には指揮下の兵員と共に英軍に投降した。マントイフェルは以降、様々な捕虜収容所を転々とした後、米軍に引き渡され、1947年に釈放された。

戦後は西ドイツのノイスに住み、政治家の道を歩んだ。1949年に自由民主党(FDP)に入党し、1953年から1957年までドイツ連邦議会の議員となった。1956年には新たに自由国民党(FVP)を結党してその議員団副団長に就任したが、翌年にはドイツ党(DP)に合流した。

議員としての彼は軍人経験を活かして安全保障・防衛政策の専門家として活躍したが、西ドイツが再軍備を果たした際にその名称を“ドイツ連邦軍(Bundeswehr)”と名付けたのは、彼によるものであったとされる。1978年に保養先のオーストリアで死去。ちなみに受章した勲章に関しては、1級と2級鉄十字章、ダイヤモンド剣付柏葉騎士十字章などがある。

 

グデーリアンやロンメル、そしてマンシュタインなどの名将から優れた多くの戦車戦術を学び、更に自らの戦場体験に基づいてその機動防御に磨きをかけたマントイフェルは、“指揮官先頭=戦う将軍”として常に麾下の部隊と共に在る第二次世界大戦下の独軍装甲部隊指揮官の代表格と云えよう。

そしてその印象は、熟達した“いぶし銀”の様な用兵が冴えわたり、あくまで諦めずに粘り強く戦うところが特徴であった。また若手の将軍ながら、その玄人好みで渋さ!?を宿した戦車屋ぶりが、独軍ミリタリーファンから多くの人気を得ている由縁であろう。

-終-

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