【名刀伝説】 藤四郎ファミリー大集合 -2 平野藤四郎・鯰尾藤四郎・秋田藤四郎   〈1345JKI07〉

【名刀伝説】 「藤四郎ファミリー大集合 -2」 として、平野藤四郎』・『鯰尾藤四郎』・『秋田藤四郎の3振(口)を取り上げる。

⇒ 【名刀伝説】 粟田口吉光について

 

『平野藤四郎(ひらのとうしろう)

『平野藤四郎』は粟田口吉光の作で、“享保名物帳”に所載されている。本刀は吉光作の短刀の中でも大振りなものであり、且つ、吉光の作刀中でも抜群の出来と評され代表作の一つとされる。刃長は9寸9分(約30.3cm)で1尺に近く、かつてはこれより更に長く、磨上げて寸尺を詰めたとの記録もある。

府に献上された“享保名物帳”「正本」では、当時御物であった『厚藤四郎』が一番目に記載されているが、同帳「副本」の吉光の項の第一番に登場する名刀が『平野藤四郎』であることから、吉光の短刀の筆頭として扱われることもある。

※本阿弥家第13代当主の光忠が、収集した名物刀剣の情報を記録して「享保書上げ」という刀工調書にまとめた後、更にそれを整理して修正を加えたものを享保4年(1719年)、第8代将軍・徳川吉宗に献上している。前者を「副本」と呼び、後者の献上分を「正本」と呼ぶ。

 

刃長は前述の様に9寸9分(約30.3cm)、平造りで真の棟、三つ棟。表裏に刀樋があるが、差し表の鎺下に、添え樋の痕が残っている。地鉄は小板目肌よく約み地沸え美しく付く。刃文は、小沸出来の広直刃が冴え足入りとなり、差裏に葉多く、鋩子は小丸となる。茎(中心)は1分(約0.3cm)区送り(まちおくり)の生ぶで栗尻、瓢簞形の目釘孔一つの下に「吉光」と二字銘が切られている。

 

この短刀の名の由来は、摂津国の豪商であった平野道雪が所持していた事に因むとされる。また道雪は、慶長期(1596年~1615年)には伏見銀座の頭役なども務めており、彼の子孫は“平野殿と言われて江戸初期まで栄えたとされる。そしてこの道雪の平野家は坂上田村麿(さかのうえの たむらまろ、平安時代初期の貴族で征夷大将軍にも任命されたことで著名な武人)の子孫を称し、彼らの拠る土地は田村麿の子である広野の領地だったことから“広野庄”と呼ばれたが、後にこれが“平野庄”に改称され、この土地の名称から“平野”を名乗った。ちなみにこの“平野庄は、摂津国の住吉郡平野庄/郷で、現在の大阪市平野区にあたる。

豊臣家の重臣・木村常陸介重茲(豊臣秀次の家老、木村長門守重成の父とも)が上記の平野道雪から金32枚(30枚とも)にて買い取ったと伝わる。この時点での刃長は1尺余りだったが、区送りして1分磨上げ9寸9分の短刀とし、これを木村重茲は豊臣秀吉に献上したと云う。

※刀の寸法を短くすることを磨上げる(すりあげる)、または区送り(まちおくり)と呼ぶ。 刀の寸法を短くする場合、鋩子(ぼうし)が無くならない様に切先側からではなく区(まち、茎と刀身の境)側から短くする。また茎尻には手を加え全体長さを元のままの状態として、刃区・棟区のみを磨上げたものがあり、これを区送りと言って、茎はそのままに区の位置を切先側にずらした。

こうして一旦、豊臣秀吉に献上されたが、それを前田利長が拝領した。そしてその後の慶長10年(1605年)6月に、利長が今度は江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠に献上したのだった。

だが元和3年(1617年)5月13日(3月12日とも)、前田利光(利長嫡養子で、後に利常と改名)が秀忠から備前長船・畠田守家の太刀と名物『浅井一文字』の太刀と共にこの刀を拝領し、『平野藤四郎』は再び前田家に伝来した。ちなみにこの時、利常側からは貞宗(正宗の子、または養子)刀、そして名物『江戸新身藤四郎の脇指を献上している。

※元々は信長所有の『浅井一文字』は、一時期、戦国大名の浅井長政が所持していたことに因む。この後、前田家から柳沢吉保へ譲渡され、明治期に山県有朋が入手したが、関東大震災で消失した。

江戸新身藤四郎』は吉光作の短刀で、在銘、刃長9寸5分とされた。元々は足利家伝来だったが石山本願寺を経て日野家の支流である烏丸家へ。その後、これも木村重茲が烏丸家から金70枚で譲り受け、秀吉に献上したものと伝わっている。後に豊臣秀頼が徳川秀忠へと贈ったが、それを今度は前田利長が拝領し一旦は前田家に移った。そして将軍家に献上された後、明暦の大火で焼けているが、その後に焼き直されたとされる。

※ここでの「脇差」は短刀の意。当時、この様な贈答においては「太刀・刀(今でいう脇差)」または「太刀・刀(脇差)・脇差(短刀)」のセットで贈り合うことが多かったとされる。

以降、前田家では折紙はないものの千貫以上の脇差(短刀)の筆頭にこれを挙げ、金沢城内の宝蔵に保管していた。文化9年(1812年)3月に本阿弥長根が御手入れに出張した際にも、「新刀の如し」とその状態の良さに感嘆している。

 

やがて維新後の明治15年(1882年)、加賀藩の第12代藩主であった前田斉泰から名物『篭手切正宗』と共に明治天皇に献上された。

※『篭手切正宗(こてぎりまさむね)』は、越前朝倉家伝来の刀。諸説あるが、京都東寺の合戦の際、朝倉氏景(越前朝倉氏第3代当主、弾正左衛門尉高景の子)がこの太刀で敵の篭手を切り落としたことから『籠手切太刀と称し、朝倉家所有の頃は貞宗の作とされていた。これを織田信長が入手して大磨上げし、大津伝十郎(大津長昌)・佐野修理大夫信吉を経て前田利常へと渡った。また磨上げたのは前田家との説もあり、更に前田家では相州正宗の作と極めた。

※史料によっては、明治天皇に献上されたのは明治12年(1879年)とも。

明治天皇所有の日本刀の一部は、大正天皇から昭和天皇と相続された後、第二次世界大戦後の財産税や昭和天皇崩御の際の相続税の代替として国庫に物納されたが、本刀は『小烏丸』等と同様に引き続き御物として取り扱われ、現在も皇室の私有財産として宮内庁侍従職が管理している。また本刀は、皇后陛下の御枕刀としての役割を担っているとされる。

御物『小烏丸』とは、江戸時代、徳川家家臣・寄合旗本の伊勢家より将軍家に献上されたものの、将軍家がそのまま伊勢家に預けた太刀のこと。明治期になり対馬藩主の宗重正がこれを買い取り、明治15年(1882年)に明治天皇へと献上され、以後、現在に至るまで皇室の御物である。鋒両刃造(きっさきもろはづくり)と呼ばれた刀身の先半分が両刃の剣となっている形状をしており、その独特の形から“剣太刀”とも称される。尚、これが平家一門の宝刀であり、日本刀工の祖とも云われる大和鍛冶の天国の作とも伝わる『小鴉(烏)丸』であるとの説もあるが、まったく別の刀剣であるとの説も有力である。また実際にも、江戸初期に本阿弥光悦がとった押形には「大宝□年□月日 天国」と銘があるが、現存の御物『小烏丸』には銘がない。

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