【名刀伝説】 藤四郎ファミリー大集合 -2 平野藤四郎・鯰尾藤四郎・秋田藤四郎   〈1345JKI07〉

鯰尾藤四郎(なまずおとうしろう)

粟田口吉光が本来は小薙刀として作刀したものを、徳川家康の命によって焼直した後に磨上げて脇差とした“薙刀直しの代表例。またその名の由来は、ふくら”の部分が、それこそ「ふっくら」とした姿をしていて鯰の尾を連想させた事から、『鯰尾』の異名を持つことになった。享保名物帳”の消失(ヤケ)の部に所載されている。

※“薙刀直し(なぎなたなおし)とは、薙刀が戦場で使用されることが少なくなった時代において、薙刀を基に、それを打刀に作り変えたもののことである。これは薙刀の切っ先の張りを削り落として全体の反りを小さくして、茎を切り詰めて打刀の体配に適した形状としたもの。また、薙刀の刀身は刃渡りが比較的短い為、脇差や短刀に直したものが多い。

※刀剣用語で“ふくら”とは、切先のカーブしている部分のこと。カーブがあるタイプを「ふくら付く」とし、カーブがなく直線的なものを「ふくら枯れる(かれる)」などと表現する。

 

刃長は、初め1尺2寸9分(約39.1cm)、次いで“光山押形”には1尺2寸8分(約38.8cm)、焼き直し後の現状は1尺2寸7分(約38.5cm)となっている。反りは2分(0.6cm)で元幅1寸(3cm)、元重ねが2分5厘(0.75cm)、茎長さは3寸2分(9.7cm)である。

この刀は既述の通りに“薙刀直し”で、上は“菖蒲造り”、下には薙刀樋と添え樋があり真の棟となる。地鉄は板目肌詰まり、刃文は匂い出来、直刃調に小乱れ・小足まじる。鋩子は小丸、茎(中心)は磨上げ、中心先を一文字に切る。目釘孔は2個で、差表(佩裏)「吉光」の二字銘が残る。また、黒呂色塗鞘脇指拵が付属している。

※“光山押形”は、本阿弥光山が作成した古刀2,727本の押形が載っている押形本/刀剣書であるが、正しくは光山の子の本阿弥光貞の作で乾坤二巻。

※“菖蒲造り”とは、刃の形状菖蒲のに似ているもののこと鎬は高いが棟は薄く、横手筋は切らない。また、この形は脇差や短刀に多い。

※『鯰尾藤四郎』は、再刃される前の刀文の状態や茎尻の様子などから判断して、再刃された際に如何にも“薙刀直し”を意識した刀として再生され、“鯰尾造り”に類似する“菖蒲造り”や“冠落とし”の要素が強い脇差となったとする説がある。つまり本来、薙刀であった『鯰尾藤四郎』だが、再刃の際に“薙刀直し”の様な刀剣(“薙刀直し造り”)の特徴を一層際立たせて焼き直されたとするのだ。付加価値を付ける為の、非常にややこしい話ではある。

※但し異説には、『鯰尾』は元々は薙刀ではなく例えば“鯰尾造り”の小太刀であったとする珍説もあり、それは、銘が切られた部分(銘が佩裏にあって位置も高いが、薙刀であれば通常は佩表に銘を切る)や茎には鎬筋はなく平になっていること、茎尻に関する再刃前の押形での形態(生ぶに近い栗尻)、同様の(再刃前の押形での)刃文をみると帽子が返っているが、“薙刀直し”であれば帽子は焼詰めか殆ど返りがないものとなるから、などが理由とされる。しかし定説では、あくまで単なる薙刀直しであったとしている。

※“薙刀直し造り”とは、実際に薙刀を直したものではなく、作刀時当初から“薙刀直し”であるかの様な形状として造られた刀のこと。「薙刀直しに鈍刀(なまくら)なし」とされたほどに“薙刀直し”の刀が高い評価を受けていた為に、最初から“薙刀直し”を装った刀が造られたのである。

※“鯰尾造り”とは、その名の通り切先が鯰の尾に似ているタイプの刀剣のこと。鯰の尾のような豊かな“ふくら”が特徴的なものが多い。

※“冠落とし” とは鎬造り一種のことで、鎬地の先の部分の肉をそぎ落としたもの。横手筋はなく、切っ先は“菖蒲造りと同様とされる。短刀等に多いとされる。

 

この刀の来歴は、初め織田信長の次男・織田信雄が所有していたとされるが、信雄は天正12年(1584年)、当時、敵対していた豊臣秀吉に内通したとして自家の岡田長門守重孝らの三家老を成敗した。

因みに、この事件が徳川家康と同盟した信雄と秀吉との間で、小牧・長久手の戦いが起こる一因となったとされる。

さてこの時、3人の家老の処刑に用いられたのが『鯰尾藤四郎』とされ、これを信雄は家老たちを処刑した家臣の土方勘兵衛雄久(河内守、越中布市藩主、能登石崎藩主、後に下総田子藩初代藩主となった大名で晩年は徳川秀忠の伽衆)に授けたと云う。

だが雄久は信雄の改易後に豊臣秀吉に仕官、『鯰尾』も秀吉の手に渡ったとされる。秀吉はこれを件(くだん)の“一之箱に収めて愛蔵し、同じ箱には『一期一振』や『骨喰藤四郎』も共に保管されていた模様であり、当時、片桐且元が記録した“豊臣家御腰物帳”には、「一之箱  なます尾藤四郎」と記されている。

そして秀吉の死後は豊臣秀頼へと引き継がれたが、この刀、秀頼が好んで佩刀したとされ、“太閤御物刀絵図(光徳刀絵図)”には「長一尺二寸八分半、御さし用、秀頼様相口拵、両度寿斎仕候」とあり、埋忠寿斎に二度も拵えを造り直させている。

※埋忠寿斎は、京都西陣を拠点として活動した金工家・埋忠家の第27代目当主。名は重長、通称は彦右衛門。家隆の子で、埋忠明寿の甥にあたる。病身の為に作刀はせずに、専ら磨上げや拵えの金具作りを行った。

しかし大阪夏の陣において大阪城が落城、炎上した際に『鯰尾』は『一期一振』をはじめ、他の太閤コレクションの多くの刀剣と共に炎に包まれた。

 

だが『鯰尾』は城の焼け跡から焼身の状態で発見され、これを惜しんだ徳川家康の命を受けた刀工・越前康継(初代)の手で再刃された。このことは記録にも残っており、“駿府記”や“駿府政事録”の慶長20年(1615年)6月16日の項に、「今度大坂兵火故、名物刀脇指悉焼け、其の後尋出之、今度召鍛冶下坂、再鍛之試合焼焠給」とある。

※越前康継は、江戸時代の越前国及び武蔵国の刀工。結城秀康(徳川家康次男)のお抱え鍛冶を経て徳川家康・秀忠に仕え、その子孫は代々家業を相伝し幕末まで江戸幕府の御用鍛冶を務めた。

※この時、越前康継は焼失した多くの名物刀剣を焼き直している。またその折に多くを模して忠実な写しを1振(口)、或いは複数製作したとされている。『鯰尾藤四郎』の写しも現存しており、銘は表に「吉光なまつをなんはんかね(吉光 鯰尾 南蛮鉄-よしみつ なまずお なんばんがね)」、裏には「越前国康継 本多飛騨守所持内」とあるが、この所持銘の本多飛騨守成重とは徳川幕府の有力譜代大名で、且つ、越前康継の最も有力な後援者・パトロンのひとりであり、また彼は父の本多重次の手紙「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の中の、お仙その人である。

そしてその後、『駿府御分物の一品として、尾張徳川家の初代藩主である徳川義直が受け継いで、以後、代々にわたり尾張徳川家に伝わった。現在は『物吉貞宗』や『後藤藤四郎』と一緒に愛知県の徳川美術館に所蔵されている。

※『駿府御分物(すんぷ おわけもの)』とは、徳川家康の遺産・遺品のこと。元和2年(1616年)4月17日、75歳で家康が没した時、駿府城に残されていた莫大な金銀財宝・諸道具類が将軍家や御三家に分与された。

物吉貞宗』は、相州貞宗の作とされる短刀。秀吉から秀頼を経て家康へ渡り、尾張徳川家へ。その名の由来は、尾張家の記録によると本短刀を帯びて陣に臨めば必ず勝利を得たことによるとされ、“享保名物帳”では家康の使用時に切れ味が大変良かった為に「物吉」とされたと云う。

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