2. 嘉永・安政期の出役
ペリー来航から開港へと続く嘉永期以降、関東取締出役の指揮の下で組合村の非常人足体制が整備され、以降は反幕武装集団の取り締まりに組合村から人員を動員する体制が整えられていくという、関東取締出役の職務が変質する重要な時期である。
また嘉永2年(1849年)には、前時期にも増して博徒捕縛の活動が活発に実施され、この広域で大規模な犯人捕縛作戦が文久以降の出役の職務に活かされることになった。
また同年(嘉永2年)4月の勢力富五郎(既述、笹川繁蔵の子分)の、所謂、“金毘羅山立て籠もり事件”では、出役は博徒の富五郎一味の捕縛に500名以上の手下を動員している。その結果、富五郎は万歳山に立て籠もった後に鉄砲で自決したが、当初、富五郎の一味は鉄砲等で武装しながら逃亡を続け、その行方は知れず追跡は困難をきたしていた。
また少なからずこの地域の人々は、道案内の飯岡助五郎と出役の癒着関係を疑って勢力富五郎一味に同情していた為、万歳村の名主・井上治右衛門らは勢力一味を密かに匿ったり、自らが知り得た御上(出役)側の情報などを富五郎らに通報していたとされる。
そんな状況の下、関東取締出役は当該地域とは因縁の無い常陸国土浦藩内の名主であった内田佐左衛門を道案内に据えて富五郎一味捕縛の任に当たらせた。佐左衛門は富五郎らが潜伏している可能性の高い一帯を虱潰しのローラー作戦で捜索しては徐々に包囲網を狭めていったが、やがて万歳村の隠れ家から逃げ出した富五郎と子分たちは八重穂村を経て小南村の金毘羅山に鉄砲等を所持して立て篭もるが、52日に及ぶ攻囲戦の後、遂に追い詰められた富五郎は自死を選択したのだった。
ちなみにこの年(嘉永2年)には、12代将軍の徳川家慶が下総国小金原の牧で鹿狩りを行うことが決定していた為に、この将軍鹿狩り行事の事もあり、幕府にとり周辺地域の治安維持は重大事であった。即ち、関東取締出役はその面子(めんつ)にかけても、勢力富五郎を大至急捕縛する必要があったのである。
※勢力富五郎(せいりき とみごろう、本名は柴田佐助)は、下総国香取郡の出身で文化14年(1817年)の生まれとされる。江戸で力士となったが郷里に帰った後に笹川繁蔵の子分となる。繁蔵が飯岡助五郎に謀殺された後、親分の仇討ちの為に助五郎を狙って関東取締出役配下の捕手集団と死闘を繰り広げた。この際の捕物では、先に大利根河原の決闘で飯岡側が敗北した状況を踏まえ、5名もの出役が参加して各々100名超の手勢を率いて飯岡一家を支援するという大掛かりなものだった。唯一逃げ延びた富五郎は笹川の南にある金毘羅山に登り、500名以上の幕吏と飯岡一家に包囲されながら52日間持ち堪えたが、最後は力尽きて自決したとされる。また、捕えられた他の笹岡一味とその協力者はすべてが江戸に送られて処刑された。
また同年8月の博徒狩では、出役は武州(武蔵国)石原村無宿の幸次郎の事件において上州(上野国)・野州(下野国)・武州(武蔵国)から道案内やその手下の他に組合村から派遣された非常人足(竹槍などを装備)や猟師(猟銃所持)などを多数動員した。この時、伊勢松坂の半兵衛を殺害した石原村幸次郎の一味は、熊谷宿周辺を荒らし秩父・甲州方面に逃走。その後、富士川を下って駿州へ至り東海道筋を横行したとされる。
関東取締出役の中山誠一郎・関畝四郎・安原寿作が率いる延べ1万を超える捕り方人員が捜索を継続。韮山代官柏木摠蔵らが御殿場茱萸沢で徘徊中の幸次郎一味と遭遇し戦闘へ突入、その後、一味の一部が中山道和田峠付近に現れ、長久保宿で中之条陣屋の手の者に捕らわれる。更に、石原村幸次郎と残りの残党が甲府勤番支配に捕縛、処刑された。
この様に嘉永期以降、改革組合村の非常人足体制が整えられ、彼らは博徒などの犯罪者集団への取締り活動に従事したのみならず、百姓一揆などの大規模な騒乱行為に対する鎮圧部隊として出役の指揮下で運用された。そしてこの際の経験が後年の幕末期の治安維持活動に活かされ、例えば不逞浪士等への警戒活動や彼らの武装蜂起への即応体制へと発展していくのだった。
※嘉永期になると、関東取締出役は改革組合村単位で非常人足を動員した。彼らは農繁期であろうと、気候の寒暖・晴雨の如何にかかわらず徴発され、例えば村高百石につき数(3~5)名づつの割合で非常人足として出動もしくは待機せねばならなかった。
嘉永5年6月~7月(1852年7月~8月)頃、関東取締出役が大原幽学を取り調べている記録が残っているが、出役やその下僚から長年にわたり圧力を受け続けた幽学は、やがて自刃して果てた。この活動などは、“蛮社の獄(ばんしゃのごく)”や“安政の大獄” での出役が担った役目と同様の 反体制・思想犯に対する取締り行為そのものであると云えよう。
※大原幽学(おおはら ゆうがく)とは、寛政9年3月17日(1797年4月13日)に生まれ、安政5年3月8日(1858年4月21日)に自殺した江戸時代後期の農政学者で農民指導者である。名は実生、通称は左門と称した。天保9年(1838年)、下総国香取郡長部村(現在の旭市長部)を拠点に、彼が創設した土地の共有組織“先祖株組合”は農業協同組合運動の先駆となったとされる。その他、農業技術の指導、耕地整理、質素倹約の奨励、博打の禁止など農民生活のあらゆる面を指導したが、幕府の弾圧を受け安政5年に自刃。享年62歳。
ペリー来航後の嘉永7年(1854年)には、関東取締出役は9名の本役に加えて臨時取締出役14名が増員される。そして組合村を基盤とする代官持場制から関東郡代制・関東在方掛制へと制度が移行、更に治安維持体制が整備・強化され、活発化する浪士活動等にも対応可能な体制の構築が図られた。そこでは非常人足体制と共に“農兵取立て”(後述)の動きが進み、改革組合村民兵の武装化が促進されていった。
またこの頃、幕府は臨時増員された出役を中心に、主要な街道筋などでの黒船来航騒動に乗じた犯罪者の横行を取締まる様に命じているが、同時に出役(臨時も含む)には黒船等の情報を勘定奉行へと伝達し、各代官とも情報交換を密にするように指示している。
更に幕府は開港後に置かれた神奈川遊歩地の警衛の為に、別段取締体制(見張番屋体制)を設置する。具体的には、外国人の横浜遊歩地域を警備する目的で、出役の指揮下で各組合村の人員が動員されたとされる。こうして日常的な犯罪対策に加え、特定地域・拠点等の警備対応に関して組合村から人員を動員する体制がより整備されていった。
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