【江戸時代を学ぶ】 関東取締出役(八州廻り)の実像 後編 〈25JKI00〉

3. 万延・文久期以降の出役とその廃止(解体・消滅)

横浜開港後の万延元年(1860年)には、横浜警備の為に出役は保土ヶ谷宿に常駐したのをはじめとして、江戸府内の入口にあたる品川宿や板橋宿、千住宿、そして内藤新宿などにも常時詰める形となった。

また同時期、出役は更に増員されて、文久元年(1861年)から翌2年にかけて総計30名以上にもなっている。文久3年(1863年)2月には14代将軍・家茂の上洛があり、出役は将軍が留守中の関東地方の治安維持・犯罪取締りの強化を実施した。また天保期に続き、ここでも“文政改革”の再教諭が行われ、当該期以降、関東地域の支配政策は頻繁に変更が加えられ、関東取締出役はそれに対応した形での活動を余儀なくされていくのだった。

既に弘化3年(1846年)頃より韮山代官の江川英龍により“農兵取立て”の建白が行われていたが、異国の脅威とも対峙しながら頻発する一揆の鎮圧や通常の治安維持にも配慮しなくてはならない状況に追い込まれていった幕府は、遂に文久3年(1863年)10月、江川支配の天領に限って“農兵取立て”を許し、英龍の子・江川英敏の建議を取り入れた。

この件で幕府海防掛から下された指図の内容には、“農兵取立て”は江川代官所の支配地に限定すること、また農民には苗字帯刀を許可しないこと、そして農業の合間に軍事訓練を行い有事の際に兵卒として動員することなどであった。この時点での江川代官所の支配地は、武蔵・相模・伊豆・駿河の4ヶ国からなり、それらの地域から取立てる農兵は約500名あまりであり、その主要武装は幕府から支給された小銃が中心で、他の費用は各地域の町村が負担した。

こうして海防の強化だけではなく、手薄となる内陸部の天領等の警備に農兵を活用する方針が下されたのであるが、長らく兵農分離政策をとってきた幕府にとっては農兵採用に踏み切ることは断腸の想いであったと想像されるが、この時期の不穏な社会情勢に対応する為には致し方なかったとみられる。

※農兵とは幕末に幕府や諸藩で農民を徴集した兵士をいう。当初、幕末の農兵は外圧に対する武備強化の必要から生まれたが、地域の治安維持や百姓一揆・騒動の鎮圧に用いられたことも多い。

※“江川農兵”とは、韮山代官の江川英龍が考えた海岸防備体制の為の農兵のこと。日頃から韮山代官領の農民に軍事的な訓練を施し、危急の際には農兵として動員して迅速に海岸防備の任に当たらせることを幕府に建白していたが、英龍存命中には許可されなかった。英龍の子・英敏の弟にあたる江川英武の時に条件付きで認められた。しかしその設置の狙いは、海岸防備よりも内陸部の治安維持が主な目的となっていた。

また同年10月には幾度目かの『代官在陣令』が発布されており、これは天領(幕府直轄領)の治安維持対策と年貢米の確実な収得が直接の目的であった。その後、韮山(江川)代官領以外の天領(幕府直轄領)や旗本領・諸藩の支配地でも武力・警備力増強の為に農兵制度の採用が相次いで、瞬く間に全国的な拡がりを見せ、関八州の各代官陣屋にも農兵が招集、配備された。

※この時期、八王子千人同心(千人隊)も駒木野の警備活動等に派遣されたりと、農兵の徴用と同じく動員令に従っている。

更にこの頃になると、出役とその配下の組織は無宿や博徒などの犯罪集団だけではなく攘夷派浪士などの取締りに対応していくが、特に(本来は管轄外の)水戸藩領内に潜伏する浪士集団の動向を密かに内偵したとされる。また同時期には、出役からの天狗党の挙兵に関する廻状が管轄の各地に送られた記録が残っているが、その内容は反体制派の不逞浪士に対する幕府としての毅然たる態度の表明が主であるが、加えて天狗党そのものへの警戒も必要(シンパ・加担者の発生を抑えることが最重要)としながらも、それらを騙った犯罪者集団にも充分注意する様にと厳重に指示をしている。

尚、具体的な活動としては元治元年(1864年)の天狗党討伐において、出役は討伐隊の探索掛として積極的に活動し、天狗党の西行を敦賀まで追尾・監視し、捕縛した浪士の取調べと武器等の押収、そして武田耕雲斎らの首謀者5名の首級の江戸への護送などを行った。

※天狗党の乱(てんぐとうのらん)は、元治元年(1864年)に筑波山で挙兵した水戸藩内外の尊王攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱。元治甲子の変ともいう。

 

その後の慶応2年(1866年)6月の“武州一揆”では、多摩川を防衛ラインとして出役指揮下の組合村の農兵(“江川農兵”)や旗本農兵・“撃剣組”などが出動してこれを撃退、秩父郷組合では出役に一揆勢に対する交戦時での殺害の可否を伺った(文久期は浪人殺害の許可あり)とされる。

またこの時、川越地区では一揆勢が城下へ侵入する勢いを示したが藩兵に阻まれ、実際には城下への混乱・影響は無かったが、その様子は藩主の松平直克に大きな衝撃を与えたとされる。そこで武蔵川越藩では一揆直後の慶応2年(1866年)7月、武力の強化を目指して領内の村々に農兵の取立てを命じたが、農民たちの根強い反対でこの“農兵取立て”は失敗に終わった。

※“武州一揆”とは、慶応2年(1866年)6月に武蔵国で起こった一揆のこと。秩父郡・高麗郡・多摩郡の百姓が米値など諸物価の高騰に困窮し、在郷商人らに米穀の安値売りを求めたが拒絶されたことで『打毀連中』を結成して蜂起した騒動であるが、発生後約一週間で鎮圧された。“武州世直し一揆とも。

この頃、即ち江戸幕府の最末期においては、慶応3年(1867年)1月に設置された関東在方掛が、関東代官や出役を監督して各地の組合村を動かしていた。

※関東在方掛(かんとうざいかたがかり)とは、慶応3年1月26日(1867年)慶応4年2月24日(明治元年/1868年3月17日)まで設置されていた江戸幕府の役職で役高は2,000石。格式は勘定奉行並であった。江戸幕府が関東地方の支配強化の為に、従来の関東郡代に代わって設置したこの関東在方掛は、関東地方の天領(幕府直轄領)や旗本領、並びに寺社領などを二分して管轄(相模国を除く)するもので、下総国相馬郡の布佐陣屋(現在の千葉県我孫子市)常駐の在方掛は常陸国・上総国・下総国・安房国を担当し、上野国群馬郡の岩鼻陣屋(現在の群馬県高崎市)常駐の在方掛は武蔵国・上野国・下野国、及び下野国の足尾銅山を管轄した。その権力・権限は従来の関東郡代よりも強く、旗本知行所に対しても天領(幕府直轄領)に対するものとほぼ同等の権限を行使可能とされた。

※木村甲斐守勝教は、慶応元年(1865年)に関東郡代に任命されて岩鼻陣屋に赴任したとされる。同3年(1867年)には関東郡代に代わって関東在方掛が新設され、勝教はそのまま初代の在方掛に任じられたが、後に勘定奉行に栄転する。一説には、彼は評定所留役時代に、“安政の大獄”を批判して罷免されている木村敬蔵と同一人物とする

慶応3年(1867年)末の“出流山事件では、出役が幕府方諸兵を指揮して天狗党の流れを汲む反幕浪士たちと交戦しこれを鎮圧した。

この時、出役の渋谷鷲郎は、栃木町から先回りして岩船西麓にある新里村に麾下の銃士隊と館林藩や佐野藩などの幕府側諸隊を配置、浪士たちを待ち付せした。そこで出流山の満願寺を出撃した浪士隊(糾合隊)と遭遇、小野寺村付近で一斉射撃を浴びせた。浪士たちは岩船山の岩陰に散り散りに隠れたが、銃撃が繰り返されて退散・下山したが、更に一斉射撃で総崩れとなり、新里村八幡山の東麓での衝突で浪士隊(糾合隊)は壊滅したとされる。

またこの事件には国定忠治の息子で、満願寺で修行をして僧になった千乗(大谷国次、この時点では刑部と改名)も属していたとされるが、岩船山にて最後まで奮戦したが遂には捕縛され、佐野天明河原にて6日後の12月18日に他の生き残り同志と共に斬首された。

※“出流山事件(いずるさんじけん)”とは、慶応3年(1867年)竹内啓(本名・小川節斎)・権田直助・会沢元・西山尚義らが率いる浪士が下野出流山の満願寺千手院拠って檄文を発しては行軍を開始、やがて150名とも300名とも云われる軍勢となり、数日間にわたり栃木宿の幸来橋付近や岩船山において、関東取締出役の渋谷鷲郎(和四郎とも)が率いる幕府方の諸藩兵足利藩や壬生藩)や真岡代官の手勢と交戦し、鎮圧された騒動のこと。その後、生け捕りにされた四十数名が処刑された。“出流山天狗事件とも。

 

出役・渋谷鷲郎(和四郎とも)の活躍

ここで、出役最晩年とも云える慶応期において、“出流山天狗事件”などの最前線で活躍した出役・渋谷鷲郎の足取りを追ってみよう。

・慶応2年8月2日(1866年9月10日)、渋谷鷲郎が上野国那波郡大惣代に謹慎を命じている記録がある。 

・慶応3年12月11日(1868年1月5日)、鷲郎(和四郎)と足利藩らの藩兵が栃木宿近郊で出流山天狗隊と遭遇し戦闘に突入。

・翌12月12日、出役が出流山屯集の浪士ら残党を捕らえて佐野表へと預けたが、その直後、浪士による報復行為として出役を狙った襲撃事件が起きている。

・慶応4年1月15日(1868年2月8日)、渋谷鷲郎が銃士隊編成の通達を出したが、これは官軍と碓氷峠で決戦を実行する為であったとされるが、この通達は後程(時期を逸して? )撤回された。

これらの僅かな史料から、自ら弾雨飛び交う戦いの最前線において、勇戦敢闘、諸隊を率先指揮する出役の姿が髣髴とされる。また渋谷の銃士隊編成の通達などに、出役が東征の官軍部隊と農兵等を率いて戦う意思を有していた事が見て取れることは、関東取締出役の最終形態をよく表していると云えよう。

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